【八重山の唄者】第4回 浦崎 宜浩
浦崎宜浩(ウラサキヨシヒロ)1951年生
竹富町鳩間出身
石垣市新川在住
八重山古典音楽安室流協和会
浦崎宜浩研究所
平成27年(2015年)6月 沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡保持者
Q:浦崎先生の出身地はどこになりますか?
竹富町の鳩間島です。
Q:どのような幼少期を過ごされましたか?
6人姉弟の3番目の長男として鳩間島で生まれましたが、鳩間小学校に入学して2か月した頃に石垣島の大川へ引っ越し登野城小学校に転校しました。小さい頃はとにかく、病弱だったみたいです。体調崩し寝込んだ時は祖父がすぐに三線を抱かせていたと、親戚が集まり昔話になると必ずこの話をされます。
ウチの家系はずっと祖父、親父と鳩間島の祭事で三線や笛など地謡を務めていました。鳩間島に居た頃の住民のほとんどは西表島に渡って米を作っていましたが、親父は石垣島に移ってからは竹富町役場で水産関係の仕事をしていました。
元々、鳩間島は黒島と西表の古見集落からの移民で成り立っていて、『村建ての唄』という唄があって、どのように人々が鳩間島に移住したのかが唄われています。現在の鳩間島の住民は約60名弱ですが、5百数十名居た時代もあるそうです。
小学3年生頃から、三線を弄り始めていました。当時家にあった三線はいわば家宝で、しっかりとした三線箱に収められていましたが、学校から帰って来ては取り出し、弾き遊んでいたので祖父が「あいあい!勉強もしないで、三線ばっかり弾いていたら、お父さんに怒られるよ!」とよく言われました。親父は町役場に勤めていたので、夕方5時過ぎには帰ってくるギリギリまで祖父と一緒に三線で遊んでいました。
Q:唄三線を始めたのはいつ頃ですか?
高校時代はバスケ部でスポーツ三昧でした。私は、県立八重山農林高校の30期生で、その頃沖縄本島での県大会への派遣校は八重山三高校から一校しか行けなかったので、その派遣校になる為に必死に練習していました。当時、農高には体育館が無くて、バスケコートもグラウンドにあり毎日赤土だらけになっていましたね。高校3年の夏の大会の派遣を逃してしまい、時間を持て余しているときに郷土芸能クラブに誘われました。仲里榮芳、花城敏明、那根操と私の4名で、「八重農ユンターズ」を結成し、その頃八重山民謡は良く知らなかったので親子ラジオやレコードで聴いていた琉球民謡ばっかりを唄っていました。
当時の郷土芸能クラブには民謡楽器が少なくて、マンドリンなど色んな楽器を持ち込んで夜遅くまで部室で演奏していたので、教頭先生に怒られることもしばしば。当時、郷土芸能クラブは、八重農と八重高だけで、その2校の郷土芸能クラブのメンバー7、8名ぐらいで、石垣市文化会館で安室流協和会の創設者でもある漢那長助先生(1894~1985)の民謡教室に通うこともあり「八重山民謡っていいなぁ」と思い、八重山民謡を習い始めました。最初に習ったのは『鷲ぬ鳥節』だったですね。
実は三線を弾く前に、横笛を習っていました。大川の自宅の隣に住んでいた小浜島出身の與那城貞安さんが夜に笛を吹いていたので、その素晴らしい笛の音に誘われて、夜な夜な通って、笛を教えて貰ったり、何本か横笛も貰ったりしていました。
Q:本格的に唄三線に関わるようになったのは?
高校を卒業して、鳩間郵便局に8年間勤めたのですが、そうすると、島の祭事に駆り出されます。島の祭事で笛、三線を弾いていました。鳩間島の豊年祭は「笛に始まり、笛で終わる」と言われています。夏の豊年祭では、東村と西村に分かれた旗頭が、笛の音で同時に動くのです。桟敷に集まり、旗頭を立てて、棒術を打つ時も、その後の爬竜船(ハーリー)する浜に向かう時も、戻ってきて、トニムトに帰る時も、全て笛の音で執り行われます。この笛は、親父と叔父がずっと吹いていました。それを見よう見真似で吹いて、親父が西の笛、私が東の笛を吹きました。親父が引退を期に、私が西の笛を担当して、東を実弟に吹いてもらっています。東の笛は、荒い音でビィーと高い音を出し、西の笛は逆に柔らかいな音で、東は雄、西は雌と言われています。東の笛は若い人でないと体力が厳しい音色で、西の笛は逆に穏やかで優雅な音色でとても対象的です。
Q:その豊年祭の笛はどのようなフレーズですか?
以前、市民会館で八重山とインドネシアの芸能文化交流公演があって、とても素晴らしい公演でした。ですが、やはり島々の地元に残る祭事の芸能文化は、実際のその地域(場所)で聴くことが大事。その祭事の中で聴かないと、本当に聴いたことにはならないし、理解も出来ないと思います。その場所で祭事の様子や風景、その時の風や匂いも含めての体感することがとても大切。継承においても、フレーズを教えるだけでは、祭事に参加しながら教わらないと、本当の継承にならないことと一緒ではないかなと思います。
Q:鳩間の大きな祭事は?
やはり旧暦6月の豊年祭と、旧暦8月の結願祭が2大行事。現在島民60名弱ほどの小さな鳩間島なので、島外の鳩間郷友会員の参加がないと祭事は成り立たないという現状がある。そんな中、『芭蕉布』の作詞した名桜大学名誉教授の吉川安一さん、『鳩間島方言集』を出版された沖縄県立芸術大学名誉教授の加治工真市さん、元琉球大学学長の大城肇さんや教授の大城學さんとかBEGINの島袋優のお父さんも鳩間出身です。八重山の中でも小さい島からこんなに多くの文化芸能関係の有名な人間が出ている『音楽』に特別な島だと思っています。
Q:「笛」は八重山の中では小浜島が有名ですが・・・
八重山で笛と言えば、小浜と川平と言われていますが、小浜島では、横笛になる小浜竹が採れていた。今でも小浜竹で笛を自作しています。最近は竹の肉質が薄くなって、実際に吹いているのは、もっぱら肉厚のある本土からの竹で作られている笛を吹いています。
子ども達に新たな学びの機会を与える熱のある指導者はスポーツにしても文化芸術にとても大事。私も竹富島の郵便局勤務時代には、竹富島のたくさんの子ども達を集めて笛や三線を教えていました。もちろん、竹富島といえば国の重要無形文化財に指定されている種取祭や結願祭にも地謡として参加しました。八重山民謡の中にも竹富島の唄は沢山ありますが、流派での工工四の唄と、竹富の島の唄では同じ唄でも、節まわしや言葉が違ってきます。
『鳩間節』も鳩間島では『鳩間中森』と呼びます。当初、鳩間島に行って『鳩間節』を唄うと、「君の唄は間違っている」と鳩間の先輩に言われてしまい。鳩間で『鳩間中森』の工工四を見て、必死に覚えて唄いました。そして、石垣島に戻って門下生に教えていると、「先生の『鳩間節』違っている」と門下生から言われてしまいました(笑)。地域の唄は、過去の厳しい歴史の中で唄い継がれているモノで、どれが正解、間違いではないはず。指導者は、この(流派と島の)二つをしっかり理解して指導しなければならないと思います。
この島々に残る島唄を、しっかり継承することが、島に住む方々の課題にもなっています。特に島々の古いユンタ、ジラバを習いたくても伝承する方がもう少なくなってきています。このままだと、本当に消滅していくしかないという現実もあり、また新型コロナで祭事に人が集まれないという・・・本当に厳しい状況になっています。
Q:改めて、正式に安室流協和会への入門はいつになりますか?
昭和55年(1980年)7月、28歳の頃です。安室流協和会の宮良長定先生が同じ郵便局に勤めておられて、組合の運動会の時に出し物として『胡蝶の舞』を私が地謡をして、先生方を躍らせ、仮装行列で優勝した事があったのですが、その後、長定先生が「宜浩、コンクールがあるけど挑戦してみないか?」と声を掛けられて、印鑑と申込書のお金を渡したところ「これで勉強しておいて」と課題曲のテープを貰いました。コンクールまでもう1カ月も無いタイミングでしたね。実は、その前に郵便局の同僚5名くらいと一緒に琉球古典の野村流にちょっと通っていたんですけど、「八重山の唄もわからないままでいいのか?」という気持ちもありました。そしてその後入門して16年の平成8年(1996年)6月に師範免許を頂きました。
Q:一番、印象に残っているステージは?
これまで全国各地の色々なステージに出させて頂いていますが。やはり、2018年9月に東京の国立劇場大劇場のステージで竹富町制70周年の記念公演「世乞い(ゆーくい)」が行われましたが、竹富町内の各島々や地域の民俗芸能保存会10団体や郷友会など160名が出演した中で、鳩間島の結願祭の『ピラ狂言』と『鳩間中森(鳩間節)』を独唱させてもらいました。国立劇場の大ステージで唄えることなんて、もう二度と無いでしょう。また、今の石垣市民会館のこけら落としの時、「月ぬまぴろーま節」を唄うことになっていたのですが、体調を崩してしまい、代役も探せなく、高熱のままステージに上がって唄い切った事ですかね(笑)。
Q:一番好きな八重山民謡は?
八重山の名曲である『とぅばらーま』も好きですけど、沖縄の三大教訓歌、沖縄は『てぃんさぐぬ花』、宮古島は『なりやまあやぐ』、八重山は『でんさー節』。やっぱり、『でんさー節』になりますね。
Q:最後に浦崎先生にとって八重山民謡は?
豊かな風土、美しい自然の中から島々、村々から生まれた八重山古典音楽は、この島が歩んだ幾多の過酷な歴史の中にあっても、人々の心を慰め、励まし、日々の生活に溶け込み唄い継がれ、息づいて来た文化遺産です。これを正しく継承していくことが今後八重山古典民謡にたずさわる人々の使命だと思います。
取材協力:金城 弘美
■動画『鳩間中森』浦崎 宜浩:https://youtu.be/Wax0ncIjCuU
■動画『鳩間浜千鳥節』浦崎 宜浩:https://youtu.be/Nfx-0xecF7I