,

【八重山の唄者】第20回 山田 健太

山田 健太(やまだ けんた)

 

生まれ年:2005年

出身地:石垣市登野城

在住地:石垣市登野城

所属:那覇八重山古典民謡保存会 山田武研究所

 

2019年6月  八重山古典民謡コンクール新人賞合格

2019年11月 第14回小浜節大会奨励賞受賞

2020年9月 「令和2年度とぅばらーま大会」奨励賞受賞

2021年2月 ミニアルバム「やいまROAD」リリース

2022年2月  沖縄県文化協会主催「第5回U―18島唄者コンテスト」奨励賞受賞

2022年6月 第46回八重山古典民謡コンクール優秀賞合格

2022年12月 第19回竹富町デンサ節大会一般の部 奨励賞受賞
2023年12月 沖縄県立芸術大学 音楽学部琉球芸能専攻 合格

2024年3月 フルアルバム「やいまROAD 愛郷愛土」発売予定

 

Q1:出身地はどちらになりますか?

石垣市登野城です。父が大川出身、母が白保出身です。兄弟が1つ上の兄、6つ下の弟で、男三人兄弟の次男です。
平真小学校、石垣第二中学校、そして今年3月に八重山農林高校を卒業します。

 

Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください。

父も母も三線を習っていたので、家には三線が置いてあり、特に父はベースやギターなども演奏していたので沢山の楽器があったのですが、小さい頃はただ触っていたずら程度でした。母は八重山舞踊をしていて、良く舞踊の現場に小さな私を連れて行き楽屋で地謡の先生方に面倒みて貰ったりしていたそうです。また母の出身地が白保なので、白保の豊年祭は赤ちゃんの頃から母と一緒にずっと参加し続けていて、『稲の一生』は毎年参加し続けてきました。とにかく母と一緒に居ると民謡が聴こえる環境にはずっと居たように思います。

 

Q3:白保村の豊年祭は「稲の一生」に赤ちゃんの頃から参加していた?

母のお腹にいる頃から参加しているので、正しくは、生まれる前からになりますけど。これまで毎年白保豊年祭には参加しています。白保の豊年祭の『稲の一生』は稲作の全工程を踊りで表現するのですが、白保集落の1班から5班が各行程に分かれて演目の踊りをそれぞれ担当します。豊年祭の奉納行列(村プール)は、飾墓御嶽に奉納されます。旗頭奉納から始まりイリク太鼓奉納、弥勒加那志来訪、白保節、白保小学校鼓笛隊のあとに「稲の一生」の奉納行列になります。私の母の実家はその中の第1実行組合で、一番初めの行程部分を担当していて、除草の草刈りの「アブシバライ」から始まってクワで土を耕す「田打ち」そして種蒔きがあり、稲を植えるなど4つの演目を踊ります。昨年の成人祝いの青年会地謡にも唄三線で参加させてもらい、夏の豊年祭では青年会の旗頭や地謡、稲の一生の第1実行組合では踊り手ではなく、地謡を担当させてもらいました。
豊年祭や地謡以外にも一昨年からは白保の棒術保存会にも兄と一緒に参加させてもらっています。白保では生年合同祝賀会で13才生年に棒術を披露していて僕は他校ですが一緒に参加させてもらい、その時に棒術保存会から男子全員指導を受けます。なので白保の男子は全員棒術を経験しています。登野城字会の棒術保存会でも豊年祭に参加しているのですが、白保棒術は豊年祭ではなく、さっきお話した正月の生年祝と、共進会、そして中秋の名月の十五夜には村の拝所であるオーセへ棒術を奉納します。去年からそれにも参加させてもらい、直前にとぅばらーま大会に出場して2日後に棒術奉納がありハードでした。白保村の棒術は練習期間が長く、形を打つだけでなく、まずは基本動作や素振りなどの鍛錬から練習が始まり、その上で形練習なので足腰が相当鍛えられます。幼い頃から行事に参加させてもらいとても白保が好きなので、青年会や棒術保存会に声をかけてもらえてとても嬉しく、また大人の中で学ばせてもらい、とても良い経験をさせてもらっています。

 

Q4:そんな健太少年が三線を習い始めるきっかけは?

私の曽祖父が三線の師匠だったらしいですが、同居している私の祖父やその兄弟は、誰も唄三線はやらなかったそうです。その下の代の私の伯父(山田武)が唄三線を習っていて、自宅の1階に伯父が住んでいた時に、教師免許を取り研究所を始めることになり、当時小学4年生の私は1階に無理やり呼び出されました。強制的に稽古を始める事となり、気が付けば私が一番弟子になっていました。自分から唄三線を習いたいと言って始めたわけではなかったのです。
週2回くらいのペースで稽古があり、大人のお弟子さんがどんどん増えてくる中、小学生は自分だけ。伯父の職業が警察官だった関係でお弟子さんが弁護士や検事の大人ばかりでした。なので、小さい頃は稽古の途中から居眠りして最後には座布団でよく寝ていたそうです。民謡の譜面である「工工四」をどう読めるようになったのかも覚えていないくらい良く分からずに大人たちと並んでほぼ受け身状態で唄三線を習っていました。
でも、中学生になる頃には、自分から唄三線に対する興味が湧いてきて、自然に自分で色々唄三線について調べるようになり、工工四の正しい読み方や、歌詞の意味をネットで調べたり、色々な唄者の先輩に質問したりしていると、「この曲を唄いたいな」という気持ちも出てくるようになってきました。
コンテストに出場するようになったりすると、中学校の郷土芸能部から声が掛かり、当時は陸上部だったので兼部で中学校文化発表会など舞台に合わせて地謡で参加するようになりました。

Q5:八重山農林高校に進学しても郷土芸能部にすぐに入部しましたか?

進学する前から、石垣第二中学校出身の先輩から入部を誘われていました。でも、中学時代と同じで、陸上部に入部して、兼部での郷芸部入部でした。郷芸部の活動は、舞踊に関しては、農高郷芸部の「形」があるので、女子生徒中心に舞踊メンバーは毎日、CD音源で踊りの稽古をして部活動はしているのですが、郷芸部の地謡を担当する男子はほぼスポーツ部との兼部なので、地謡担当は大会前や発表会前に練習に参加して仕上げる感じです。私も基本は陸上部の活動がメインでした。郷芸部に在籍しているけど、唄三線に関して郷芸部で指導受けたりすることは無く、唄三線に関してはあくまでも個人としてコンテストやとぅばらーま大会に出場していたので大会などの発表会のみの部員みたいな立ち位置でした。それでも、郷芸部での地謡が少なく、特に3年生の先輩(太鼓担当)が抜けた後、太鼓担当が居なくて。そんな時、部活動していない同級生に声掛けて民謡未経験なので太鼓を私

八重山農林高校体育館にて奄美大島大会の凱旋公演

が自己流で教え地謡の太鼓を担当して貰ったりしました。その同級生はその後、徳八琉太鼓根原格研究所に入門して本格的に太鼓を習い始めて、高校3年にはコンクールにも出場し新人賞に合格しています。
現在の農高郷芸部では、独自の演目の舞踊の形が先輩方から引き継がれていて、それに合わせた演奏を過去の資料を参考にしながら、地謡担当が独自研究しながら仕上げていくカタチになってます。丁度私と同級生の地謡メンバーが、先程話した太鼓と、小浜島出身の笛、西表祖納出身の唄三線の4人なのですが、それなりに演奏できる人間がそろっていたので、少ない練習時間でもすぐに合わせても仕上げることが出来るメンバーでした。そのような中で去年の鹿児島県奄美大島で開催された第47回全国高等学校総合文化祭(かごしま総文2023)で、文部科学大臣賞・最優秀賞を獲得。8月第34回全国高等学校総合文化祭優秀校東京公演を東京国立劇場で演舞披露することが出来ました。

Q6:中学3年生からは、琉球古典も指導を受け始めてますが、それはどうしてですか?

横目博二先生が主催する白保企画の琉球芸能ワークショップに小学6年から参加してました。このワークショップは、琉球の舞踊や音楽に親しむ内容で、実演家を招いて指導してもらい、市民会館大ホールで発表会を行います。八重山出身者で琉球古典音楽の実演家、花城英樹先生が指導されていました。その時、生まれて初めて琉球古典音楽を聴いて習い唄いました。その先生方が県立芸術大学音楽学部琉球芸能専攻を卒業されている話を聞いて、自分もその芸術大学で学びたいという気持ちになりました。それを父に話したら、その当時、知り合いの方から琉球古典名手の與那覇徹先生のライブが石垣島であると教えて貰い、聴きに連れて行ってもらいました。これまで八重山の唄、三線しか知らなかったので、與那覇徹先生の琉球古典音楽からエンタテイメントな速弾きや演奏までふり幅の広い、声の出し方、三線の弾き方など、曲ごとのしっかりとした解説などの演奏スタイルに衝撃を受けました。その後、新型コロナ禍が始まり、唄三線を演奏する場が無くなり、自宅で独り三線を弾き続けている頃、徹先生がご自身のユーチューブチャンネルで色んな曲の動画をアップされてて、概要欄に歌詞の意味や曲解説がしっかり書かれていてそれを参考に真似してパソコンの前で演奏していました。その様子を見ていた父が、徹先生にコンタクト取ってくれて、オンラインで稽古を受けることになりました。今でも月に2回ペースでオンライン稽古続けて貰っています。八重山古典民謡の師匠である伯父も転勤で那覇に戻ったのですが、その稽古もオンラインになりましたので、稽古は全て自宅でオンラインです。

平成5年とぅばらーま大会

Q7:これまで沢山のステージで立たれてますよね?

小学生4年の唄三線始めてすぐに師匠に進められて、自宅の近所でもある登野城のあがろうざを唄う集いに参加から始まり、中学1年の時に沖縄県文化協会主催の「第2回U―18島唄者コンテスト」に出場したのは母の踊りの師匠でもある川井民枝先生から「健太出てみない?」と声を掛けてもらったのがきっかけでした。それからほぼ毎年出場しています。また中学1年の頃は、変声期で唄えない時期があり、師匠の小浜節大会、とぅばらーま大会に三線だけの伴奏でステージに立たせて貰ったりしました。変声期が落ち着いて中学2年生の時に、小浜節大会で奨励賞を頂き、そして母が代表務める美ら百合グループ主催「かりゆし芸能公演宮古島公演」では独唱をさせてもらいました。中学3年生の時にとぅばらーま大会に初出場して奨励賞受賞、これまで毎年4年連続で出場して全て母が囃子をしてくれています。そういう意味では唄三線はじめてからずっと人前で唄う機会は多かったですね。どちらかというと人前では緊張するタイプではありますが、一番緊張したのは、中学校3年生の時の学校内でのクリスマスパーティのステージで同級生たちの前で唄三線を披露した時でした。民謡コンクールや他の大会では年配の方の観客が多いステージには慣れているのですが、同世代や同級生の前だと違う緊張感だったこと覚えています。

Q8:そしていよいよ県立芸大受験ですね?

コロナ禍明けの高校2年生の時、古典民謡コンクールで優秀賞を頂き、稽古も少し落ち着いたので、その後は芸大受験の為、琉球民謡の課題曲に練習を集中して取り組みました。入学試験は、2日間あり、1日目に実技試験と筆記試験、2日目に面接試験がありました。実技試験の課題曲の中から「かぎやで風節」を、その他にもう1曲、二揚調子の曲を琉球古典音楽から自由曲で「干瀬節」に挑戦しました。で、筆記試験では「楽典」があり譜面を読んだり、書いたりなど音楽専門の科目で一生懸命対策勉強しました。そして、無事に推薦枠で合格することが出来ました。

Q9:でも、八重山民謡と琉球古典音楽は全くの別モノと言われていますが
琉球古典音楽を学びに県立芸大入学をしようと思ったのは、八重山民謡は元々島で唄われていたユンタ、ジラバ、アヨーなどの古謡の謡と、首里からの役人が三線を持ち込んで、八重山地域を見て唄われた「節歌」があります。唄三線を仕事とする役人が八重山の土地に感化されて唄われた曲も八重山民謡としてたくさん残っていますが、そのルーツを辿ると琉球芸能があります。先ずは琉球芸能の知識や技術をしっかり大学で4年間学んで、さらに八重山芸能を極める勉強をしていきたいと考えています。八重山の各行事でもその他の祝賀会、敬老会でのお祝いの場では、必ず琉球舞踊が演目に入っていて、昔と違い「弾ける人が居ない」ってなることが多いですし、琉球芸能もしっかり学んだ唄者であれば、色んな場で重宝されます。自分の世代を見渡すと先輩方と違って、そこまで対応できる唄者がそんなに居ないのでそういう役目を自分が出来たらいいなと考えています。

Q10:3月13日には初フルアルバムリリースとソロライブを予定されているそうですが

2021年に中学時代に培った15才の唄声を残そうと父の提案で初めてのミニアルバム「やいまROAD」を作りました。そして今年は高校卒業記念にさらに成長した今の自分の唄で初めてのフルアルバム「やいまROAD 愛郷愛土」をレコーディング中です。現在はメインの唄三線は録り終わり笛などの収録を終えれば完成します。このフルアルバムの完成記念に、3月13日(水)に中ホールでソロライブを予定しています。前回のミニアルバムは父が企画してくれたり、演奏でも手伝ってもらったりしましたが、今回のアルバムはレコー

2021年2月ミニアルバム「やいまROAD」

ディングや音楽構成なども全て自分ひとりでやらせてもらってます。

Q11:健太さんは八重山の唄者として成長し続けてますが、同じ若い世代で唄三線をする人はどんどん少なくなってきてるように思いますが自身はどう感じてますか?

僕の周り学生は、学校で三線に触る機会や自分が三線を弾いて唄う機会などに、やはり古典民謡ではなくBEIGNの「三線の花」「島人ぬ宝」「海の声」のリクエストをしてきます。もちろん素敵な曲ですけど、沢山の八重山古典民謡の名曲があるのに、当たり前ですけど同じ八重山出身でも民謡を知らない人は知らないですよね。そのギャップにショックを受けたこともあります。でも、八重山では色々な祝いの席ではやはり八重山民謡が演奏されますし、唄三線は必要とされています。今年の正月、白保村のマンタラーの御祝いパレードに車に乗りながら地謡させてもらいましたが、自分の唄三線で道行く人が皆さん嬉しそうに口ずさんでくれたり、お祝いの家でのモーヤーで家族の人や親戚、近所の皆さんが盛り上がって踊ってくれたりするんです。そういう唄三線を出来る人が居なくなるとそうしたお祝いの席は無くなってしまう訳で、その為にもしっかり4年間大学で琉球芸能を学び、そして八重山に戻って、先人から伝えられた文化を絶やすことがない様、継承していく為にも八重山の唄三線を極めて、立派な八重山の唄者になりたいと思っています。