「蓬莱行〜大和、八重山、台湾へと音の旅路は続いていく〜」(後編)

 そんな着想からすぐさま、大工さんに連絡して構想を伝えたところ、大工さんからも即座にご快諾をいただき、以降は同じステージに立つメンバーを集めることとなった。大工さんのパートナーであると同時に、この人なして大工哲弘ならずとも言われている、囃子や琴、笛に踊りまで何でも見事にこなせる超絶マルチアーティストである苗子さんが最初にメンバー入りをした。

 そして、冒険物語のような心持ちで、次に声をかけたのが石垣島在住のトランペット奏者、玉盛邦則さん(KUNI)である。KUNIさんは東京出身だが、父方のルーツが竹富島にあることから縁を感じ、移り住んだ移住者である。彼の父親はプロのジャズトランペット奏者であり、彼自身もアメリカの名門バークリー音楽院を卒業するなど、まさにサラブレッドなプロのトランペット奏者である。彼は海外でも多くのファンを持ち、音楽的評価も高い日本のインストゥルメンタルバンド「SLY MONGOOSE」(ボーカルのいない音楽演奏のみの楽曲で構成されるバンド)のメンバーとしても活躍しており、今回のプロジェクトでも、大工さんや苗子さんとも柔軟かつより世界観を際立たせることができるアーティストとして選ばれたのである。

(KUNIさん、大工哲弘さん、著者)

 それから、KUNIさんのバンドメンバーでもあるギタリストの塚本功さんもこの企画にご賛同いただき、仲間入りしていただいた。塚本さんは、複数のバンドを組んでいるだけでなく、サポートミュージシャンとしても人気のある凄腕ギタリストなのだが、塚本さん自身も沖縄民謡との繋がりがある。それが、沖縄民謡アーティストの喜納友子、真南風、前川守隆らの歌や演奏を中心とし、鍵盤ハーモニカ奏者のピアニカ前田さんが沖縄音楽にリアレンジを施した作品「AJIAN NOSTALGIA」である。(この作品は、石垣市立図書館のCDライブラリーに在庫あり)

 三線、琴、トランペット、ギターというメンバーが揃い、後はリズムを刻む打楽器奏者が必要であった。そこで、ドラマーを検討したが、現地にきちんとしたドラムセットがあるかどうか不安がよぎり、大工さんやKUNIさんと相談した結果、「持ち運び可能なパーカッション奏者がいいかもしれない!」ということになり、今回の「蓬莱行」プロジェクトでは、石垣島出身の玉城ちこさんがパーカッションとして参加することになった。玉城さんは、東京で主に石垣島出身のメンバーらで構成されていた南西楽団のパーカッションとして活動し、その後活動拠点を沖縄に移し、2004年よりラテンロックバンド「ディアマンテス」のサポートメンバーとして活動をしている。また、2011年には自身の音楽ユニット「コンフント・アレグリア」を結成し、現在も精力的に活動を続けている。

 そんな構成メンバーがようやく決まった台東公演だが、まだまだ課題は尽きず。メンバーが住んでいる場所がバラバラ(石垣島、沖縄本島、九州)であるため、リハーサルがすぐにできないことや、本番までにわずか2回のリハーサルしかできないこと(那覇、台北で実施)などがあった。また、台北でのリハーサルスタジオでの手配も課題となっていたのだが、そんな中、僕が沖縄本島在住時にお世話になっていた台北在住の伊禮武志さんが現地にて音楽関係の仕事をされていたため、相談&サポートして頂いた。伊禮さんは、台北でのスタジオ手配やアドバイスをしてくれて、ウチナーンチュの温かさとネットワークの重要性を感じた出来事の一つであった。

 さてさて、そんな中でとうとう台東での「蓬莱行」ライブの日がやってきた。1日目当日の天気は快晴、リハーサルも順調に進んでいたところ、いよいよ本番!という直前に亜熱帯特有の夕方からのスコールが会場全体に降り注ぎ、大雨でこれはもう無理なのではという状況に陥ったのである。これは本当に実現不可能かもしれない、これぞまさに「蓬莱行」を象徴する出来事かと思われた。しかし、その時、救世主が現れたのである。会場近くのホテルオーナーが快くホテルロビーを無償で貸してくれて、急遽ロビーコンサートが実現したのだ。急な場所変更にも関わらず、開演前には既に大勢のお客さんでロビーは満員となり、無事に1日目を終えることができたのであった。

 そして、2日目は前日のスコールを危惧しながらも、元々予定していた野外ステージでの準備を着々と進め、本番も無事に終えることができた。そう、前日のリベンジを果たし、今回の目標を無事に達成できたことは、僕らにとって大きな喜びだった。

(当日の演目)
①無蔵念仏
②渡りゾウ・瀧落とし
③鷲ぬ鳥節
④与那国ぬ猫小
⑤あがろうざ節
⑥安里屋ゆんた
⑦ゆんた(船ぬ親じらば、ゆんたしょうら)
⑧まみどーま
⑨月ぬ美しゃ
⑩雨夜花
⑪お酒小唄
⑫望春風
⑬お富さん
⑭満州娘
⑮さよなら港
⑯とぅばらーま
⑰くいちゃー
⑱新安里屋ゆんた

 冒頭の「無蔵念仏」は、当時その年に台北市内で起こった建物のガス爆発事故や飛行機の墜落事故の被害者に対して黙祷を捧げる意味で、急遽大工さんが曲目に加えて鎮魂歌として演奏された。その後、20曲近くも歌い上げ、2時間超の公演を見事に演じきったのである。要所要所では各曲の解説や、大工さん得意のジョークも入り、会場は見事に大工哲弘ワールドと化し、現地の老若男女を問わず、多くのお客さんが大いに盛り上がっていた。

 特に、僕が個人的に一番印象に残った瞬間がある。日本統治下の思い出がよぎったのか、台湾民謡の「雨夜花」「望春風」といった、日本統治下時代に台湾で広く歌われたといわれているこれらの曲が披露された時である。会場が一体となって歌っている様子に感動しただけでなく、当時の思い出が蘇ったのだろうか、年配の方々の中には涙を流して歌う方もいたのである。会場が優しい空気に包まれた瞬間だった。その後、大和の流行歌「満州娘」「さよなら港」が演奏され、会場は盛り上がっていく。そして、大工哲弘・苗子夫妻の真髄ともいえる八重山民謡「とぅばらーま」が演奏され、会場がその旋律に心を惹き込まれ、二人の掛け合いが聴衆それぞれの情景を呼び起こし、息をするのも忘れてしまうほどの静寂がその場を包み込み、そこには確かに八重山の情景が現れたのである。まさに音楽が国境を超えて伝わった瞬間ではないだろうか。

(公演後の集合写真)

 ここで「蓬莱行」という事について改めて考えてみる。「蓬莱行」とは沖縄におけるニライカナイ的思想のことである。ニライカナイとは、沖縄の民間信仰において、死後の世界や天国、極楽浄土などと同様の存在で、人々が行き着く場所や境地を指す。
一般的には、沖縄の伝統的な信仰や宗教において、人が死後に至る場所として位置付けられている。また、ニライカナイは、天国のような豊かな楽園や、神様たちが住む場所としても考えられている。ニライカナイの概念は、琉球王国時代に中国や朝鮮から伝わった儒教や仏教、神道などの思想が混ざり合って形成されたと考えられており、現在でも、沖縄の祭りや信仰行事において、ニライカナイへの信仰や祈りが行われている。

 ところで、八重山諸島ではニライカナイの捉え方が沖縄本島とは少し異なる。八重山諸島の人々にとって、ニライカナイはユートピア的な存在というより、琉球王国時代の人頭税(琉球王国が行った一種の徴税制度で、一定の年齢以上の住民すべてに課せられた税金のことを指す。具体的には、15歳から50歳までの男性は穀物、女性は織物を年貢として琉球王国に納めていた。これは明治時代後期まで続き、宮古・八重山諸島圏域の住民にとっては、納税の義務が個人や家族の負担となり、その負担が重くなることで、庶民の生活に多大なる影響を及ぼしていた)や、台風災害、飢饉等の自然災害から逃れたいという、南の果てに理想的な場所を求める島人たちの悲哀や羨望の表れだっったのだ。

 「唐ぬ世から大和ぬ世、大和ぬ世からアメリカ世」は、島唄の神様と呼ばれた嘉手苅林昌さんが作詞した名曲「時代の流れ」の一節であり、後に沖縄のフォークシンガー佐渡山豊さんも自身の代表曲「ドゥーチムニー」で引用しており、この一節は沖縄県民にとってはとても印象深いものである。沖縄の政治的な歴史を辿る際によく用いられるフレーズだが、ここ八重山諸島ではどうだろうか。八重山諸島の歴史は沖縄本島以上に過酷なものであったことは、人頭税からも分かることであるが、琉球王国時代の八重山諸島は、周辺地域との交易によって栄えていたと考えられている。


 八重山諸島は、当時、中国、東南アジア、琉球王国、朝鮮半島、日本などの地域との交易の拠点となり、中継貿易が盛んだったといわれている。また、八重山諸島の人々の生活は、漁業、農業、織物、細工などを中心に行われていた。特に八重山諸島の織物は独自の技術とデザインがあり、琉球王国や中国、東南アジアなどにも広く輸出されていた。現在でも、ミンサー織りとして、沖縄県の伝統工芸品の中でも非常に重要な位置付けとなっている。八重山諸島の人々は、島々をつなぐ船舶交通によって、琉球王国や中国などと交流を深め、文化や技術の交流も盛んにおこなわれていた。しかし、八重山諸島は地位的なものもあり、そうした様々な国々との交流を経て、沖縄本島とは異なる文化的背景を持ち、独自の言語や音楽、伝統的な衣装や民俗芸能などが存在し、現在でも継承されている。

 「蓬莱行」というテーマを掲げてあの公演で感じた、温かくも不思議な感覚は、一体何だったのだろうかと思い直してみる。当時の記憶の情景を辿ってみると、様々な課題を乗り越え、目標が達成できたという安堵感も勿論あったのかもしれないが、それ以上に、八重山民謡を通して島の文化が、台東という原住民族の文化が色濃く残る場所で披露され、言語の壁を超えて共有されたことが感じられた。そして、そこから見えてきたのは、台湾をはじめとする東南アジア文化圏、果てはオーストラリアやニュージーランドのポリネシア文化圏に至るまでの文化や芸能の潮流が、まさにそこに垣間見れ、その大きな歴史のうねりの中で、自分自身のアイデンティティが呼び覚まされたかような感覚があったように思える。

 ところで、台湾のアミ族の民謡には「老人飲酒歌(Elders Drinking Song)」というとても素晴らしい名曲がある。この曲の一節を、ヨーロッパのアーティストEnigmaが自身の曲「Return to Innocence」の中で、アミ族の郭英男(Difang)がレコーディングしたバージョンをサンプリングしたのだが、この曲が1996年のアトランタオリンピックのテーマソングとして使われたこともあり、世界的な大ヒットとなった。しかし、実は郭英男またアミ族の許可を得ていなかったため、訴訟問題にまで発展したそうだ。後に郭英男とEnigmaは和解し、この世界的な大ヒットがきっかけとなり、台湾の原住民族の音楽が世界中に広く知れ渡ることになった。これは民族音楽が持つ力の大きさを物語るものであり、とても興味深い事実である。


 僕にとっては、八重山のユンタジラバと呼ばれる労働歌も、アミ族の歌と同様に、素晴らしい旋律、変則的なリズム、そして複数人で歌う時の幾重にも重なる普遍的なメロディーやグルーヴ感が、原始的な感覚を呼び起こし、魂に深く響くものだと感じる。そして、この感覚はきっと、まだ聴いたことがない世界中の人達を惹きつける可能性が大いにあると考えている。(ルーツは同じだと思うので間違いないだろう)

 そう、この素晴らしい八重山の音楽文化をより広く世に知らしめるためにも、本サイト「音楽民族+」はまだまだ努力を続けなければならないし、「蓬莱行」はまだまだ果てしなく続いていくのである。

(台東、滞在先の民宿からの海辺の風景)