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【八重山の唄者】第21回 比屋根 祐

比屋根 祐(ひやね たすく)

 

生まれ年:1978年

出身地:石垣市美崎町

在住地:石垣市登野城

所属:八重山古典音楽大濵用能流保存会 比屋根祐三線・笛教室

1988年10月(小学4年)第11回八重山古典音楽コンクール新人賞

1992年10月(中学2年)第15回八重山古典音楽コンクール 優秀賞

2006年10月 第29回八重山古典音楽コンクール 最高賞/笛:新人賞

2007年10月 第30回八重山古典音楽コンクール 笛:優秀賞

2009年10月 第32回八重山古典音楽コンクール 笛:最高賞

2012年1月 八重山古典音楽大濵用能流保存会 教師免許取得 三線教室スタート

2013年1月 八重山古典音楽大濵用能流笛教師免許所得 笛教室スタート

2014年9月 とぅばらーま大会チャンピオン

 

Q1:出身地はどちらになりますか?

生まれた時は美崎町のアパート住まいでした。5歳の時に新栄町に引っ越して、登野城の家に落ち着いたのは15歳の中学3年の頃です。なので、新川小学校~石垣中学校と、西側で育ちましたね(笑)。
5つ年下の妹と二人兄妹です。

 

Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください。

祖母は小波本キクで、とぅばらーま歌唱のチャンピオン、歌詞部門でもチャンピオンになっています。登野城での「小波本」は、笛を吹く方が多くて、僕もそうなんですけど、子供の頃からよく棒術や獅子に連れていかれ、小波本の親戚の叔父さんに笛を習い吹いていました。

小学時代は新小で野球をやっていて、石中では陸上部で中長距離が専門で3年にはキャプテンをしていました。中学3年の時に、二中校区の登野城の家に引っ越しましたが、対抗陸上大会の前だったタイミングもあり、転校はせずに、卒業まで、自転車で石中に通っていました。高校は八重高に進学して駅伝部に所属して、高校3年時には県大会で初の3位に入賞し、八重高駅伝部として初の九州大会代表として出場しました。

郷土芸能部から参加しないかと声は掛けられていましたが、その当時は、まだ唄三線を人前で披露することには抵抗があったように記憶しています。鹿児島の大学には、測量などの土木関係の資格を取る為に第一工業大学に進学しました。大学ではスポーツでの部活動は参加せずでしたが、一番近い本土ということで、沖縄県人会の活動が活発で、毎年の学園祭で披露されるエイサーなどに踊り手として参加していました。

Q3:祐少年が唄三線を始めるきっかけは?

唄三線を習い始めたのは小学4年生の10歳の夏休み頃、登野城の比屋根家の本家である、爺ちゃんの兄の比屋根勇爺ちゃんの教室に通っていました。両親が車の免許を持っていなかったのもあって、新栄町の自宅から勇爺ちゃんの登野城の教室に通う際にタクシーでした。1時間の稽古を終えてまたタクシーに乗って帰ってましたね。今思えば凄い待遇ですよね(笑)。

実はウチの親父は、琉大の八重芸(八重山芸能研究会)に所属して唄三線をやっていた頃、取材に行く各島々の唄(唄い方)を大事にし、流派には属していなかったそうです。そんな中、大濵用能流を教えていた本家の比屋根勇爺ちゃんは、親父に早く用能流に学ばせたいと思っていたらしく、先ずは、直接声をかけるのではなく、その子供の私に声をかけてみたのが本当の真相だったと思っています。

なので、親父よりも先に、自分が用能流を習い始めていて、その翌年から、親父や伯父の比屋根悟が勇爺ちゃんの三線教室に通い始めました。なので、門下生としては、親父よりも自分の方が先輩弟子にあたるんですよね。

 

Q4:親父さんが唄三線を弾く姿は見ていた?

親父の廣(ひろし)は、家に人が集まった時に遊びで早弾きとかするような感じで、ガッツリ古典を演奏する姿は見たことがなかったです。ですが、登野城の旧盆のアンガマでは青年会OBとして地謡を担当していました。本人は車の免許が無いので、いつも、家でアンガマ地謡の衣装に着替えて、タクシーで出かけていくわけです。そして、僕もお盆になるとアンガマを一晩中追っかけるんですよね。親父がアンガマの地謡を中心に仕切ったりしている後姿に子供心にかっこいいなぁと憧れていて、三線弾ければアンガマの地謡が出来る、と興味を持ち始めたと思います。唄三線するなら、勇爺ちゃんの教室でちゃんと教えて貰いなさい、という流れだったのですが、親父や伯父さんたちを通わせる為に自分を上手く使ったんじゃないかと疑ってますけど(笑)

僕らの小さい時代は、唄三線をすることは「カッコいい」ではなく、むしろ「カッコ悪い」と思っていて、アンガマの地謡に憧れてるなんて話は友達にも一切話していなかった。新人賞のコンクールに出場した時に同級生の子が何人か居て驚いたくらいです。

その当時は、今でいう「あやぱに賞」的な部門はなかったので、最初の賞は「新人賞」でした。課題曲が「鷲ぬ鳥節」だったと思います。先ずは夏休み練習から10月のコンクールで無事に新人賞を頂きました。そして、翌年には、親父と悟おじさんが新人賞を、その翌年には優秀賞を頂いてますね。自分は、成長期の変声などがあって上手く唄えない時期などがあり、小学6年生の時に優秀賞にエントリーしましたが声が上手く出ずに裏返り、一度試験に落ちてしまってます。優秀賞は中学2年生の時に頂いてます。最高賞の受験は、「大人になってから」しかも、八重山に戻って来てからと親父からもずっといわれていたので、八重高を卒業後、鹿児島の大学に進学・卒業後、沖縄本島で就職したのち、石垣島に戻ってからになりますね。

中学2年の時に、THE BOOMの「島唄」が大ヒットして、それまで唄三線をしていることを内緒にしていたのですが、バンドしている連中から、バンドで三線を弾いて欲しいというお願いが来たり、三線を教えて欲しいとお願いされたりして、中学3年生には、バンドメンバーとしてステージで三線を弾いていました。その頃のBEGINはデビューしたばかりで三線などの民謡のアプローチは一切していなかったですからね。やはりTHE BOOMの島唄の大ヒットで三線ブームの影響は僕らの世代にはとても大きかったように記憶しています。

Q5:アンガマ地謡に憧れていた祐少年は?

実際のアンガマ地謡に笛で参加したのが15歳の中学3年の頃だと思います。アンガマ地謡は青年会メンバーがメインで、青年会OBの親父が地謡を取りまとめる最後の年だったと思います。まだまだアンガマ地謡の早弾きや演奏技術がまだまだだったので笛で参加することなりました。笛に関しては中学生になった頃から笛を習い始め、登野城の豊年祭で獅子舞と棒術に笛で参加していました。親父のアンガマ地謡に憧れていた自分としては、親父がアンガマ地謡を引退する前に一緒に務めたいという思いもあり、笛ならなんとかついて行ける感じでした。親父とアンガマ地謡を務めたのはその1回きりで、翌年、高校生になってからは、三線で地謡に参加するようになりました。登野城のアンガマの踊り手は、高校生の女の子たちも参加していましたが、地謡で高校生は自分だけでした。高校を卒業して鹿児島の大学生時代も、豊年祭やアンガマの時期は、島に戻り豊年祭では旗頭に、アンガマでは地謡に参加していました。親父はアンガマ地謡を卒業した後も、登野城の青年会活動の相談役的に、練習などには教えに来てましたね。

 

Q6:登野城の行事ごとにはずっと参加していた?

高校時代は身体の線が細くて、旗頭に参加したのは大学生になってからですね。棒術に関しては、那覇での仕事5年務めて、石垣島に戻った翌年2007年には、登野城青年会会長になりました。12年に一度の登野城字会の結願祭があと4年後だよ、という時期だったんですが、登野城の棒術が途絶えた時期で、その当時の青年会メンバーほとんど棒術経験が無く、そろそろ棒術も復活させ継承しないと、という流れもありました。棒術の元責任者でもあった與那覇致効さんを訪ねて棒術の復活をさせたいと相談に行きました。しかし当時の青年会では、男手が6名くらいしかいなく、3組しか手が打てない状況でした。棒術は3組だけでは打てないので、青年会OBの方に声かけして人集めしました。その年の豊年祭ではなんとか5組で復活させました。そこから平成22年(2010年)の寅年の結願祭までに参加者も増え、全ての手を打てましたし、豊年祭では棒術奉納は継承され毎年続いていますね。

登野城字会豊年祭(高校時代)獅子舞の笛演奏(右端が父:廣氏。祐本人は右から3番目)【本人写真提供】

2007年7月登野城字会豊年祭 棒術保存会メンバーでの記念写真 【本人写真提供】

Q7:自身の三線教室をスタートするのは?

石垣島に戻った平成18年10月コンクールで「最高賞」を頂いて、その5年後の平成24年1月に教師免許を頂き、三線教室をスタートしました。その時の門下生は全て登野城の青年会メンバーでした。登野城青年文化発表会の座開きで唄三線を披露したいと相談受け、6名からのスタートでした。

実は親父の廣は平成7年から三線教室を自宅でスタートしていて、多くの門下生が居たのですが、平成23年に亡くなってしまい、そのお弟子さん達も引き継がないといけない、大濵用能流の名前を継承しないといけない時に教師免許を頂けたので、そのまま「比屋根祐三線教室」の看板でのスタートでした。週2回火曜日・木曜日で稽古を続け、親父のお弟子さんで教師免許を持っている方と手分けをして、各賞ごとに課題曲を練習するようなスタイルでの稽古を続けました。翌年の平成25年1月には笛の教師免許も頂けたので、笛の指導も始めました。

Q8:平成26年(2014年)にとぅばらーまチャンピオンに?

平成23年のとぅばらーま大会から参加していました。その前年の平成22年のとぅばらーまチャンピオンに登野城の新本当昭さんがなっているんです。それまで、ずっと新本さんのとぅばらーまのステージで笛を担当していて、その先輩がチャンピオンになった時、とぅばらーまの指導をしていた親父がとても喜んでいたのが印象的で。実は、それまで親父から唄の指導は受けたことがほとんど無かったんです。これまでの三線の師匠は勇爺ちゃんでしたし、最高賞の時も、自分自身で練習していましたから。親父から面と向かっての指導を受けるシチュエーションはありませんでした。新本さんがチャンピオンになり、翌年には、自分もとぅぱらーま大会に出場したいから「とぅばらーま」を教えて欲しいとお願いしました。でも、23年2月に親父の病気が判明し、余命8カ月と告げられ、体調がどんどん悪くなる中、ソファに横になりながら、自分の唄を聴いてくれてくれたり、「お腹に力が入らんさぁ」と言いなが一緒に唄ってくれたりと闘病生活しながら稽古をつけてくれました。ICレコーダーに当時の親父のとぅばらーまを残してくれてて、それを聴きながら必死に練習し、23年9月のとぅばらーま大会に初出場したのですが、その頃は体調も悪くなっていて、その大会のとぅばらーまの中継は聴いてくれてたようです。親父はその大会後の10月には亡くなりました。

その後も大会への出場は続き、平成25年には同じ年代の先輩である、岡山創さんがとぅばらーまチャンピオンになり、自分が優秀賞でした。「来年こそは、祐だな」と妙なプレッシャーもかけられましたね。とぅばらーま大会への出場者が地元出身者じゃなく、本土からのエントリーが凄く増えた時期で、創さんと地元の僕らの年代が頑張らないと、と話合っていたこともあり、自分が頑張って出場を続けた居たのですが、創さんは、ポンと出場して、ポンとチャンピオンになってしまうので、流石だなぁと(笑)。
とぅばらーまチャンピオンになってから、色々なところから声を掛けられるようになり、登野城の行事以外で唄う機会がとても増えました。色んなご縁で独唱することも多くなり、金城弘美さん、大底吟子さんの流派の違う三人で『八重山唄会』という東京でのライブも定例化してずっと年1回の公演に毎回呼んで貰えています。

Q9:先日の音楽民族+SESSIONS 2024ではトークセッションに登壇予定だったけど、体調不良で参加できなかったですが、登野城の古謡について改めて。八重山の唄の原点である古謡について祐さんたち若い世代はどうとらえてますか?

先日の公演直前に体調崩してしまい、出演予定だったのに出演出来ず迷惑おかけしました。
前回2023年2月のトークセッションの時に、現在は昔ながらの農作業はなくなり、古謡聴く機会がなかなか無い中で「古謡などのユンタ・ジラバの唄への参加は敷居が高く、僕らの世代はなかなか参加出来なくて、まだまだ、先輩方たちのモノといった意識はあります」と話をさせてもらったのですが、その発言を来場者として参加していた登野城ユンタ保存会の現会長である新城浩健さんが聞いていて、2年に一度開催されていた石垣市民俗芸能振興大会がコロナ禍明け、久しぶりの開催が今年1月に市民会館大ホールであったのですが、その際に、参加してみないか?と声を掛けて貰いました。自分含めた若い登野城のメンバー5名ほどで参加して『今日が日ジラバ』『こいなユンタ』『安里屋ユンタ』を先輩たちと一緒に唄わせてもらいました。

登野城ユンタ保存会では、登野城村古謡集やCD集を作成したりしていて、僕らの世代は、その音源や歌詞を基に車中や色んな所で聴くことが出来ます。だからといって、昔ながらに大先輩の皆さんのように歌詞の意味を理解して、唄の世界観を掘り下げて覚える、とかは自分たちの世代ではかなり厳しいですよね。今の流行歌やポップスを聴いて覚えていく感覚に近いカタチでも唄えるようにすることの方が正直大事だったりすると思います。個人的な活動として、継承の為にも、自分の財産としてこの貴重な「登野城村古謡集第1集」(平成4年出版)を古本サイトで見つけては手元に残すよう買い集めています。
車中で登野城の古謡をBGMとして流していると、横で聴いている自分の娘が、が古謡の唄を覚えて普通に唄ったりするんですよ。そういうのを目の当たりにすると、自分が勝手に「古謡は敷居が高い」とか考え過ぎてるのでは?と疑問に思えたりするんですよね。「古謡を伝えなければ!」と肩に力を入れた状態よりも、ある意味もっと簡単に楽しさを共有するだけで良いのかも。僕が唄ってるのに合わせて彼女が「返し」を唄って来たりして、単純に唄い合う楽しさを感じるとまた違った感覚になったりしていますね。

Q10:今40代中盤となった比屋根祐にとって唄三線はどういうモノですか?

三線教室を始めた頃は、親父の亡くなった後、「やるべき事」という意識がとても強くて、あまり人に教えることの意味をあまり考えていなかったように思います。とにかく、自分がどうすれば気持ち良く唄えるかばかり考えていて、自分の思いだけだったような。今は、最初の弟子が2人ほど教師免許を取得していてコンクールでも審査員として人の演奏に点数を付けて合否を決める立場となってくると、自分の教え方が正しいのか、合っているのか?という疑問や伝えることの難しさを俄然考えるようになり、教える側の産みの苦しみを味わって自問自答の日々が続いています。(笑)その分、今までにない教え子たちの成長に喜びを倍以上感じることもありますね。その感覚は、今の自分にとっての色んな物差しになっている気がします。

そういう悩みを打ち明けられる違う流派ですけど、同年代の先輩方である岡山創さんや金城弘美さんが傍に居てくれることは本当に心強く感じています。

新型コロナの影響で、しばらく教室での活動も休止中の為、自分の弟子たちがコンクールに出場する機会も今は途絶えている状態ですが、今年の4月からは教室も再開する為の準備を進めています。
大濵用能流の所属の関係者は、八重山の4大流派(八重山古典民謡保存会、安室流保存会、安室流協和会、大濵用能流保存会)の中では、一番少ない数ではありますが、地元出身者がほとんどを占めてる特徴もあります。その分、この先を考えれば底力はある、と言われていますが、現状、コンクールへの用能流の参加者は一桁が続いてる現状を考えれば、地元に根付いているからと、そこに甘えるのではなく、後進の育成に本当に本腰を入れて行かないといけないという思いが強いです。親父もその思いが強い人だったです。たぶん、勇爺ちゃんから託されたという思いがあったと思います。知念清吉先生と、親父の教室で用能流のすそ野を広げる為に尽力していましたから。ウチの二朗爺ちゃんは、用能流の唄三線をしていましたが、自分で人を動かしたり先頭に立ちまわったりする人ではなかった。兄の勇爺ちゃんが人を動かすような動きをしていた分、横で静かに見守る立ち位置だったように思います。

その思いを感じてる分、自分が一人で後進育成頑張っても良い結果にはならないですし、自分たちのちょっと上の先輩方たちの力もお借りして、大濵用能流をしっかり着実に広げていく努力を続けていきたいと考えています。

八重山民謡も、地域の旗頭や獅子舞や太鼓も、僕らの時代とは違い、小学校では必ず触れる機会が用意されていますよね。地域行事に熱い先生方が声を掛けて始まっていると思いますが、小さい頃からどんな些細なことでも地域文化に触れる機会を作ることはとても大切だと思うし、特に登野城小学校は、大川字会と登野城字会が混在しているので、どこが一番ではなく、やはり二つの地域文化があることをしっかり伝えることは大事。青年会含め、地域への学校からのお願いがあった時は必ず参加協力するように伝えています。大人と違い、頭でなく「感覚」で地域の唄や踊りなどを理解する子ども達に多くの機会を作れるよう地域の大人たちは努力を続けたいですね。

登野城旧盆アンガマ地謡(本人は中央花笠姿)【本人写真提供】

 

 

 

動画「新与那国しょんかね節」https://youtu.be/koFre7ix_es
動画「月ぬまぴろーま節」https://youtu.be/qW8nlHGUsoE