【八重山の唄者】第8回 大浜 修

大浜 修(オオハマ オサム)1950年生

竹富町南風見出身
竹富町南風見在住

八重山古典民謡保存会
新城民俗芸能保存会
大浜修研究所

【主な芸歴】

昭和50年(1975年)八重山古典民謡保存会大底朝要に師事
昭和60年(1985年)「ばが島うた」第1巻収録
平成元年(1988年)八重山古典民謡保存会教師免許所得
平成4年(1991年)「ばが島うた」第2巻収録
平成8年(1995年)本底初子・大浜博起・大浜修 三姉弟 那覇/石垣公演
平成8年(1995年)秀風会舞踊発表会にて地謡で参加
平成20年(2008年)八重山古典民謡保存会 師範免許所得
平成21年(2009年)八重山毎日新聞社主催八重山古典民謡コンクール審査員に委嘱
平成24年(2012年)CD「八重山ぬ歌情/大浜修」2枚組発売
平成27年(2015年)沖縄県教育委員会より沖縄指定無形文化財「八重山古典民謡」保持者認定

【受賞歴】

昭和52年(1977年)八重山毎日新聞社主催コンクール新人賞受賞
昭和53年(1978年)八重山毎日新聞社主催コンクール優秀賞
昭和57年(1982年)とぅばらーま大会 歌唱最優秀賞
昭和59年(1984年)八重山毎日新聞社主催コンクール最優秀賞受賞
平成16年(八重山毎日新聞社より「コンクール及び発表会に対する協力と功績」賞状授与

 

Q:幼少の頃のお話を聞かせてください。

両親は、新城(あらぐすく)島の出身で、7人兄妹の末っ子で兄が4人、姉が2人いました。親父は昭和18年(1943年)頃、新城島から出て、ここ南風見(大原地区)に移住して農業をしていました。南風見地区は戦前の昭和15年頃に新城島の住民で開墾されて集落が出来たのです。うちの先祖は、石垣から新城島に派遣された7代目の役人でした。親父の曽祖父は三線をやっていて地元の祭事では地謡(じかた)をやっていたそうですが、私が幼少の頃の両親や親戚一族で唄三線している人は居なかったです。

Q:幼少の頃の新城島の祭事には参加されていましたか?

新城島の豊年祭、節祭、結願祭など島のお祭りには、新城島出身の大原地区在住者など総出で参加していました。私の幼少時代は、新城島には現在とは違い住人も多く居て小学校もありました。親父の兄弟のおじさんやおばさんの家に家族で泊まり込みして参加していました。新城島の場合、三線が地謡を務める奉納舞踊は結願祭のみ、豊年祭や節祭では唄三線はありません。豊年祭ではユンタなどの古謡、節祭は「パナリ巻き踊り」になります。住人が多い時代は、竹富島の種取祭のように、さまざまな踊りを奉納することもあったそうです。現在は大原地区でも新城島に関係する人も減ってきて、祭事には石垣島在の先輩方や若い人たちに声がけして新城民俗芸能保存会として活動を続け、竹富町の島々の芸能紹介等にも参加しています。

 

Q:学生時代の話を聞かせて下さい。

大原幼稚園、大原小学校、大原中学校とずっとここ(南風見)で過ごして、中学卒業後は、親父の農業を継ぐつもりだったので、八重山農林高等学校に進学しました。スポーツは小学校からずっと野球をしていたのですが、高校では剣道部に所属していましたね。

高校の時には、本土の先進農業を見学に行く研修旅行にも参加しましたね。その研修旅行には八重山から20名、宮古地区から20名の計約40名ほどが参加していて、僕らの年の見学先は神奈川県でした。まだ、本土復帰前で、パスポートがいる時代でしたし、飛行機は高額だったので船を乗り継いで鹿児島まで行き、在来線の電車をまたまた乗り継いで、石垣島から神奈川県まで4、5日掛けて辿り着きましたよ(笑)生まれて初めての県外への旅でとても思い出に残っています。神奈川に到着してからは、養豚業、野菜農家、畜産業などのグループに分かれて1週間程の間、各業種で体験見学しました。私は花栽培のグループで温室の中で朝から晩までカーネーションの芽かきをしていましたね。戻りももちろん電車と船だったので全行程2週間ちょっとでした(笑)。小さな島出身の者にとってはとにかく本州の大きさにびっくりしましたね。研修旅行の費用を、親父と一緒に農業を手伝っていた兄が「卒業したら、俺と変わって親父の農業を手伝う」を条件に出してくれていましたので、兄との約束で卒業後は南風見に戻りました。

Q:三線を弾き始めたのは?

私自身、高校卒業して、ここ(南風見)に戻ってくるまで、三線をさわったことも無かったです。農高を卒業して、戻ってしばらくは親父と一緒に農業をしていました。2年ほど経った頃、近くに竹富町営の発電所があり、その発電所を町が琉球電力公社(現沖縄電力)に売却することになり、運転員を募集する話がありました。私は応募し採用されました。発電所は24時間稼働する為終日4人の運転員でまわします。夜勤などもあり、夜中に時間を持て余していることが多く、その時間を利用して自己流で三線の練習を始めることにしました。実は、私と入れ替わりで島を離れ那覇に出た兄貴が、当時、西表島の古見村で三線を教えていた大底朝要先生の教室に通っていて、自宅に兄の工工四(譜面)、三線がありました。それをそのまま譲り受けて親子ラジオから流れてくる八重山歌を聴きながら独学で勉強していました。(朝要先生は、私が南風見に戻ってくる時期に、石垣島の方へ引っ越しされていました)

そうこうしていると、海底送電で島の発電所が無くなることになり、石垣島へ転勤することになりました。まだ遊び三線を嗜む程度だったのですが、大工哲弘先輩から「自分の発表会に出演して欲しい」と声が掛かり、那覇まで行き、パレット久茂地で古謡のゆんたメンバーとしてステージに初めて立ちました。発表会の翌日には、大工先輩のFMラジオのレギュラー番組にゲスト出演して、新城島の歌を唄わされました。ちゃんと八重山歌を勉強しないといけないとずっと思いはしていたのですが、そんなこともあり、25歳の時に石垣島で三線教室を開いていた大底朝要先生(八重山古典民謡保存会)に師事しました。

 

Q:本格的な地謡(じかた)デビューは?

やはり最初は、新城島の結願祭での地謡ですかね。島の先輩:安里真幸さんと二人で『くいぬぱな節』『前の渡(まいのとぅ)節』『世果報(ゆがふ)節』などを唄いましたね。あとは、朝要先生に付いて、色々な舞踊研究所の発表会などで地謡をするようになりましたね。その後は、朝要先生からの指示で、先生の門下生で幾つかの地謡グループに分かれ、舞踊研究所の稽古練習の地謡演奏する経験を積むことで唄三線の勉強させてもらいました。

最終的には秀風会本盛秀八重山民俗舞踊研究所などのいくつかの舞踊研究所でレギュラーの地謡をさせてもらいました。

 

Q:舞踊研究所などの地謡する上で心掛けている事などありますか?

舞踊の地謡だからといって、踊りに合わせようとするのではなく、どちらかというと地謡が踊りを引っ張っていく意識の方が結果的に踊りやすくなると思います。唄声が沈んでも駄目だし、演奏のテンポ感も気持ちよく上げてあげないと、踊りも上がらない。弾き方も踊手を動かす(踊らせる)ようにしないと。舞踊の地謡は自分自身が良いと思ううたを朗々と唄うだけでなく、踊手をよく魅せるうたを唄うことが大事だと思っています。踊手の方に「あんたの地謡じゃないと私は踊らないよ」と言ってもらったときは最高ですし、そう言われたからには、逆に全身全霊で地謡を務めないといけないですしね。特に本盛秀先生が現役で踊られるときはずっと地謡させてもらって光栄でした。秀先生の旦那さん:本盛茂先生の詞に曲をつけて『秀風ぬ踊る』という曲を作りました。茂先生の生前に曲を聴いてもらい、気に入って頂きました。また、その曲に秀先生が振付してくれて。本盛秀舞踊研究所の発表会には幕開きの曲に使ってもらったりして、いち唄者としてはとても有難いですね。

 

Q:その他に思い出に残るステージとかはありますか?

那覇にいる姉:本底初子(長女)は勤王流の舞踊研究所を、兄:大濱博起(四男)は、八重山古典民謡保存会、琉球民謡協会の師範として研究所を持っていたのですが、そこに私が加わり、3姉弟で平成8年(1995年)11月に、那覇(県立郷土劇場)と石垣(市民会館大ホール)で開催した姉弟公演『糸掛きてぃ昔世ぬ謡心踊心』があります。実行委員長の安里功さんをはじめとする沢山の皆さんの協力でとても盛大なステージで唄うことができました。

 

Q:修先生の研究所のスタートは?

研究所を立ち上げる前に、八重山農林高校の郷土芸能部の外部コーチとして2年ほど通い生徒たちに三線を教えていました。それまでは、農高郷芸部は八重高、商工に勝てず、なかなか県代表になることが出来ずにいたのですが、私がコーチ時代に初めて九州大会のキップを勝ち取ることが出来ました。そのすぐ後に転勤で那覇勤務になったのですが、一緒に九州大会に行った生徒たちが、進学や就職で丁度沖縄本島に出てくるタイミングが重なり、引き続き、那覇の僕のアパートに4名の生徒が集まり三線を教えることになりました。週2回水曜日と金曜日の夜、僕の作る晩飯(そばかカレー)を食べながら三線を教えたのが研究所のスタートでしたね(笑)。

 

Q:修先生の好きな八重山歌はなんですか?

1曲は『越城(くいぐすぃく)節』かな。(「越城」は新城島の上地にあった村名)八重山毎日新聞社主催の八重山古典民謡コンクールの課題曲になっていて、この歌を唄えないと合格できないですし、1番だけでも6、7分掛かる長い曲。この曲でほとんどふり落とされてしまう(笑)。新城島のご先祖様の歌なので、やはり特別な気持ちで唄いますね。『安里屋節』『あがろうざ節』「つぃんだら節」あたりはしっかり“自分の歌”にしなくては、と思っています。

 

Q:修先生にとって謡(うた)とは?

謡(うた)は「情け」で“心のよりどころ“ですね。八重山歌は特にね。

 

Q:唄者大浜修としてルーツ新城島はやはり特別ですか?
新城島の行事があったからこそ、唄者として鍛えられてきたと思いますね。行事の2週間前から練習が始まり、当日も一日中唄いあげて。若い頃は、翌日には声が出なくなり、しばらく手話で過ごす日々が続きましたよ(笑)。それほど唄いあげるのが新城島の謡(うた)です。「新城の人は喉が強い」と言われる所以ですかね。他の地域は豊年祭で唄う人は決まっていますが、新城島の豊年祭は老若男女全員で二手に分かれて唄勝負ですから。そっちがこうなら、こっちはこうだ!と。節祭のパナリ巻き踊りも、1年に一度、思いっ切り声を出して唄い合い勝負するのが皆の楽しみ。そうして喉を鍛えた結果、とぅばらーまチャンピオンに新城出身者が4名も出ているはずよ(笑)。

西表島南風見の自宅前にて

『くいぬぱな節/大浜修(島唄連載「恋ししまうたの風」第28回新城島より)』
https://www.youtube.com/watch?v=2NDt4JvN5HA