【八重山の唄者】第22回 前津 伸弥
前津 伸弥(まえつ しんや)
生まれ年:1979年生
出身地:横浜市
在住地:石垣市大浜
所属:八重山古典民謡保存会 前津伸弥研究所
平成19年(2007年)11月 第33回八重山古典民謡コンクール新人賞
平成21年(2009年)10月 第35回八重山古典民謡コンクール優秀賞
平成26年(2014年)10月 第11回小浜節大会 最優秀賞
平成27年(2015年)9月 令和27年度とぅばらーま大会 歌唱の部 最優秀賞
平成28年(2016年)10月 第42回八重山古典民謡コンクール最優秀賞
令和2年(2020)年9月 令和2年度とぅばらーま大会 作詞の部 優秀賞
平成31年(2019年)3月 八重山民謡保存会 教師免許 取得
Q1:出身地はどちらになりますか?
生まれた当時は両親が横浜で生活していたので出身地は横浜市になります。生まれてすぐに両親の出身地でもある石垣市大浜に戻って来たので育ちは大浜になりますね。詳しい話は聞いたことないのですが、若い夫婦の初めての子供だったので、やはり、祖父や祖母の力も借りて、という思いがあったかもしれませんね。
その後は、おおはま幼稚園、大浜小学校、大浜中学校、八重山高等学校と大浜でずっと育ちしました。下に3人の妹がいて私が長男4兄妹になります。
Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください。
僕らの時代大浜小学校では、スポーツ少年団アカハチがあり、その所属している同じメンバーで4つのスポーツ種目「野球」「サッカー」「バレーボール」「バスケットボール」をしていました。なので、1週間の中で、曜日毎に練習する種目が変わるのですが、その当時はサッカーがあまり人気もなく、大きな大会自体も1年に1大会程度だったので、アカハチチームとしてサッカー練習する機会がとても少なかったですね。ただ、授業の一環としてのクラブ活動はサッカーを選択して、そこで楽しく練習していましたね。小学校ではその程度でしたが、中学生になると部活が始まり、サッカー部に入学してサッカー三昧な日々になりました。丁度、Jリーグも始まり、テレビでサッカーを観る機会も増えて一挙にメジャースポーツになってよりサッカーに夢中になっていました。
Q3:地元の行事などでの関わりは?
大浜の豊年祭などの地元行事には、大浜小学校の児童として参加する程度でしたね。今は、豊年祭の行列で小学校などの旗頭や獅子舞などもありますが、僕らの時代は、伝統の踊りではなく、小学校低学年の踊りや鼓笛隊での参加ぐらいでした。なので、地元の祭事などで民謡などに接した記憶はほぼ無いですね。
Q4:スポーツ三昧の日々で、民謡だけでなく音楽的な関わりも無かった?
サッカー漬けだった中学時代に、仲が良い友達の家にアコースティックギターがあり、その友達はギターが弾けました。その当時流行っていた藤井フミヤさんの『TRUE LOVE』が弾きたくて、ちょっと練習させてもらったことがありました。ですが、やはり初心者一番の壁である“Fコード”が押さえきれなくて「辞~めた」となりました(笑)。あの当時はまだ手足も小さかったからかもしれません。高校3年の時に、またギターを弾いてみると、今度はFコードがちゃんと押さえられて、ハイコードで簡単に演奏が出来ることが分かりギターを良く弾いていましたね。それでも、高校でステージ上がって披露したりとかは一切なく、本当に遊び程度にギターを触っていた程度です。
Q5: 高校卒業後は?
中学・高校とサッカー三昧の日々を送っていて、進路をどうするか?となった時に、サッカー以外にやりたいことが無かったこともあり、サッカーを続けることにしました。その当時、Jリーグ人気の盛り上がりもあり、ブラジル留学で活躍している三浦知良選手の影響もあったと思いますが、ブラジルに日本人を地元のクラブチームにサッカー留学させる業者も沢山ありました。そこで、自分もブラジルにサッカー留学をすることにしました。高校卒業後、ビザの申請などで3カ月くらいしてブラジルに渡りました。日本人寮もあったりして受け入れ体制も出来ていましたが、練習中に足首を怪我してしまいました。18歳で異国の地に渡り、不安な気持ちをサッカーに打ち込むことで紛らわした部分もありましたが、怪我してしまうとそのサッカーも出来ない、異国のブラジルの病院で治療も不安があり、一度区切りをつける為石垣島に戻ることにしました。ブラジルに居た期間は半年間くらいでしたが、今考えると自分にとっては必要な時間だったかもしれません。
石垣島に戻ってからはアルバイトなどをしながら次のステージとして小学校の教員免許を目指す為に資格所得の専門学校に入学することにしました。丁度、下の妹が沖縄本島の短大に進学するタイミングで沖縄本島に出ました。そして、単位を所得して3年ほどで石垣島に戻り、その後アルバイトや市の臨時職員などしながら通信教育を続けて教員資格を取得しました。
Q6: 地元の大浜青年会に参加するタイミングは、その専門学校を卒業して島に戻る頃ですか?
そうですね。大浜の大綱引き前に大浜地区の男性陣が参加して大綱を作るのですが、その作業に参加しているときに、「青年会に参加しないか?」と6つ年上の次呂久成崇先輩から声を掛けてもらいました。それまで次呂久先輩とは年が離れていて先輩後輩の間柄だった訳ではありませんでしたが。せっかく声掛けて貰ったのでそのまま参加することになりました。
Q7:青年会参加ですぐに唄三線を始めたのですか?
いえ、青年会のメインのアンガマーなどの活動では唄三線の地謡でなく、踊り手として参加していました。前津家では、祖父や親父も唄三線はしてなくて、家の中に三線も置いてない家でした。なので、それまで唄三線に触れる機会もなかったですし、三線を弾きたいという思いもありませんでした。ですが、実は、石垣島に戻って来るタイミングで13歳年下の一番下の妹が東金嶺等さんの三線研究所に通っていて、私より先に唄三線を習っていました。それでも、その時は自分で三線弾きたいという思いになることも無かったですね。
Q8.そんな伸弥青年が唄三線を始めるきっかけは?
青年会活動の中で「青年会発表会」があって、青年会メンバーで演奏するのですが、『鳩間節』をみんなで演奏する演目がありました。その時、自分は唄三線ではなく「笛」を吹いたんです。実は教員免許も取得して教員として勤めた時の校長先生が小浜島出身の花城正美先生で、笛の手ほどきを受けていまして。花城校長に連れられて小浜島に連れて行ってもらったり、宮良長包先生のイベントなど一緒に笛を吹かせて貰ったりしていました。演奏者としての初舞台は、石垣字会の新年会に花城先生が石垣小学校の校長として呼ばれていて、唄三線の時に横で笛を吹いたのが最初だったと記憶しています。どの曲を演奏したかも忘れていますが。笛を吹けるといっても音が出せて、メロディーを追える程度でしたけど。唄三線より先に笛で八重山民謡に触れていくようになりました。
私は早くに結婚して子供も出来たので、青年会を卒業することになったのですが、そのタイミングで青年会の後輩である大石定治から研究所に誘われました。青年会を卒業して2,3年経ってはいたのですが、その時には三線弾きたいなという思いもあり、平成19年長浜寛先生の研究所へお世話になることになりました。
Q9.先日のシンポジウムでもお話していた前津家の三線発見のお話もう一度いいですか?
先に唄三線を習っていた一番下の妹は、進学で島を離れていて彼女の三線は家に置いてあったのですが、彼女自身で購入した三線だったので、私が使うわけにもいかないなぁと思っていました。私の実家が一番座、二番座、床の間、裏座と昔ながらの屋敷だったので、もしかして三線もあったりしないかな?という思いがあり、家の中を調べてみました。そうすると、裏座の押し入れの中に、前津の「マ」の字が書かれた木箱を見つけて蓋を開けてみると袋に入った三線が入っていました。親戚などの話によるとどうやら祖父の三線だったようです。この三線を自分用として使わせてもらう事にしまして、本格的な三線の稽古をスタートしました。
ですが、長浜先生も私自身も仕事が忙しくなかなか研究所での向かい合っての稽古が出来る状況でもなく、行事ごとの地謡演奏の機会に先生の唄三線を横で聴き耳立てたり、レコーダーで録音して、それを持ち帰り、その録音を聴きながら練習したりと自身で試行錯誤の稽古が多かったですね。勿論、コンクール前の指導はありましたが、そのことで受け身でなく、能動的に唄三線を勉強できたかもしれません。
Q10.唄三線は順調にステップアップされたんですか?
コンクールでは順調に新人賞、優秀賞を頂いたのですが、最優秀賞がなかなか合格することが出来なくて。4年連続で落ちてしまいました。4回目の時は、自分なりに手応えもあり、「今回は合格できただろう」と思っていたのですが合格出来ず、「これで合格できない最優秀賞ならもう要らない!」という思いにもなってしまいましたね。もうコンクールを受けるモチベーションも無くなり、コンクールから遠ざかっていたのですが、そんな中、石垣市のとぅばらーま大会にも何度も挑戦していまして、平成27年(2015年)にとぅばらーまチャンピオンになることが出来ました。そうすると「最優秀を合格していないとぅばらーまチャンピオン?」は嫌だなという思いが出てきまして、その勢いのまま、「今、やるしかない!」と翌年のコンクール受けることにしたのです。そこでようやく(運良く?)最優秀賞に合格することが出来ました。とぅばらーまチャンピオンになってなかったらコンクールに挑戦することもなく、この最優秀賞は間違いなくとれてないですね(笑)
Q11.とぅばらーまチャンピオンのお話も聞かせてください
研究所に誘ってくれた大石定治がとぅばらーま大会に挑戦していて、彼の出場時に横で何度か笛を吹いていました。自分でも出場してみたいという思いが出てきて、予選に参加しました。平成23年でしたが本選への合格発表の時、丁度妹の子どもの満歳祝いで会場に居られなくて、定治から電話で「合格しているよ」と連絡をもらいました。本選の出演順のくじ引きもお願いしたら、出演順としては一番厳しい最終の出番を引き当ててくれました(笑)。翌年2回目の挑戦の時は、少し天狗になっていて、あまり練習もせずに予選に臨んだら合格できず本選に進めませんでした。平成25年、26年と本選出場しましたが、努力賞も優秀賞となにも引っかからなかったですが、平成27年に最優秀賞を頂けた時は、自分自身が一番ビックリしました。定治もそのあと平成29年にチャンピオンになりましたが、その時の本選では笛を吹かせてもらっていました。とぅばらーまチャンピオンになると、色々なところで声かけてもらえて唄わせて頂いて、沢山の方との新たな出会いも多くなってとても有難いなぁ、と思います。
Q11.でも、教員しながら唄三線を稽古するのって大変じゃなかったですか?
実は、教員の仕事は5年ほどで辞めて、介護職の仕事をしていました。最初は太陽の里のつむぎの里で介護をしていたのですが、勿論年配の皆さんが多くいらっしゃって、島言葉を耳にするし、民謡を唄う機会もあり、それで方言や唄言葉を勉強することが出来たりしました。またディサービスとぅぬすくで働いた際は、ディサービスのプログラムが当番制であって担当者が好きに考えて良くて、自分は良く唄三線の練習もかねて民謡をみんなで唄ってもらっていました。その時間が三線の演奏の技術や唄言葉の稽古時間になって自分の唄三線が身についていったのかなと思う部分もあります。
平成25年11月には介護職は辞めて、平成26年4月には保育士の資格を持つ妻と一緒に自分は園長として自宅裏で保育園を立ち上げました。自分は教師免許もあったので、保育園と学童保育を併用していたのですが、今現在は色々国の制度も変わって学童保育は無くして、小規模認可保育園として運営しています。園児たちの“リズムあそび“というカリキュラムがあるのですが、通常は電子ピアノで行うのですが、ウチの保育園はせっかくなので三線を使ったりしています。童謡を三線の音色で唄ってもらっています。2月にはその成果を披露する発表会も予定されています。
Q12.これまで色々な舞台で唄われて来たと思いますが、特に思い出深いステージはありますか?
そうですね、人前で唄を披露する、大会にチャレンジするきっかけになったのは、小浜島で開催される小浜節大会ですね。花城正美先生の繋がりもあり、小浜節大会に出場することになり、人前での唄三線で独唱する人生初の大会でした。自分の出番が終わった後、とにかく唄い終えてほっとしているところに観客で観に来ていた大浜の先輩が「見ているこっちが緊張したよ。心臓が止まるんじゃないかと心配したよ」と言われたんです。その時にハッとしたというか、観ている聴いている人にそう思われるような唄でステージに上がってしまっている自分に気づかされました。なんとなく唄が唄えるからステージ上がっては駄目なんだ、もっとしっかり練習して、自分の唄に自信を持ってからステージに上がらないといけない。聴いている人に、会場の観客全員にちゃんと届く唄にならないといけないと。そこから自分自身の唄三線に向かう姿勢、唄者としての八重山の謡(うた)に対する思いが変わった、思い出深いステージでした。平成26年に小浜節大会最優秀賞を頂きました。
Q13.平成31年3月に教師免許を取得されていますが
師匠の寛先生に教師試験を受けなさいと勧められて。令和6年の元日に自分の研究所を正式に立ち上げました。昨年1年間は入門者もいなかったのですが、実は先々週(令和7年1月)から小学2年生の男の子が週1回の稽古に通ってくれています。実は昨年の暮れ、12月27日に舟蔵の里で行われたチャリティーコンサートに、同じ大浜出身で、同級生でフルート奏者の吉田優子に誘われて、NHK『ちゅらさん』の番組で音楽を担当した方の編曲した『とぅばらーま』をフルート×ピアノ×三線で演奏に参加しました。その演奏を生徒のお母さんが会場で観てくれていて、その後に直接DMで「息子に三線を習わせて頂けませんか」と連絡を貰いまして入門することになりました。今日もこの後3回目の稽古があります。私にとって最初のお弟子さんですね(笑)。住まいは字石垣でそこから大浜まで通ってくれています。4歳の頃からバイオリンなど習っていたそうで、弦楽器の経験もあったり三線も弦を押さえられたり、お母さんも琴をやられていたりして、民謡にはちょっと触れている感じもあるので、意外にスンナリ稽古に入っていけましたが、人に教えるのはこんなに難しいんだなぁと思いましたね。知らない八重山民謡をどうやって教えた方がいいのか、改めて考えさせられています。今年の6月には八重山古典民謡保存会コンクールの奨励賞を目標に、そこに持っていく為に、課題曲をどうやって覚えさせて稽古を進めて行こうか頑張っているところです。弟子を指導することでまた新たなステージになり、新たな自分自身の課題も出てくるだろうし、とても楽しみです。
Q14.最後に伸弥さんにとって八重山の謡とは
皆さん、ご存じのように八重山の謡は八重山に暮らす者にとって生活の中に根付く大切なモノであるし、私にとっては八重山の謡を唄うことで、仕事だけでは知り合えない沢山の方々と繋いで貰ってきたなぁと思います。今、こうして自宅でインタビューを受けていること、だったり(笑)。ありきたりで、唄者の皆さんが言う言葉かもしれませんが・・・八重山の謡は私の生活(=人生)の大切な宝ですね。
動画:音楽民族+SESSIONS2024 part2