【八重山の唄者】第23回 那根 操
那根 操(なね みさお)
生まれ年:1952年
出身地:竹富町西表(祖納地区)
所属:八重山古典音楽安室流協和会
平成3年(1991年)5月 八重山古典音楽安室流協和会 教師免許取得
竹富町民俗芸能連合保存会 事務局長
Q1:出身地はどちらになりますか?
竹富町西表・祖納地区になります。8人兄妹で6男・2女で、一番上が長女、一番下が次女。それに挟まれるカタチで男が6人。私が男の一番末っ子の6男でした。なので、私や一番下の妹は、長男など上のお兄さんが面倒みてくれてる状態でしたね。長女姉さんとは20才、長男兄さんとは18才と年が離れていました。父親は公務員で祖納地区の保健所勤務でした。母親は家事の仕事やら色々していて勤めてはいませんでした。私の小さい頃の父親は、マラリヤの根絶の為の薬品散布や投薬、浦内川の奥にあるイナバ部落まで歩いて薬を届けに行ったりして忙しく島中を動き回っていました。根絶までもう少しという状況でした。
Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください。
仕事を終えて帰って来た父親は、風呂上り、ご飯の支度が出来るまで、縁側で三線を良く弾いていました。父親はあまりお酒を飲まない人で、晩酌などはなく、唄三線を朗々とやっていました。「殿様節」「まんかー節」のメロディなど、三線の音色が今でも耳に残っていますね。
両親と子供8人と10名の大所帯でした。食費含めて大変な苦労をしていたと思うのですが、小さい自分はそんなこと気にせず出された食事をたらふく食べてましたね。私が二十歳の頃に、長女の姉さんや長男兄さんたちから、その当時、母親や年上の姉兄たちは食べるのを我慢していた話を聞かされました。どうやら、ほとんど食べていなくて、そっと母親がにぎったにぎりめしだけを時々食べてたそうです。その話を聞いて驚いたのと同時に、姉兄たちの愛情や兄弟の絆を凄く感じました。
長女の姉さん、長男、次男の兄さんたちは、高校に進学せずに働いてくれていました。3男の兄から八重山農林高校に進学するようになりました。私は西表小学校でしたが、小学6年の時に、父親が石垣島の八重山保健所に転勤することになり、2学期から登野城小学校に転入しました。中学校は、そのまま石垣第二中学校に入学しましたが私たちが第1期生でした。
父親と長男兄さんが唄三線をしていて、私がまだまだ幼かった頃、町内のお祝い事には父と兄の2人は唄三線で声がかかり呼ばれていくと、お祝いの折り弁当が用意されていているんですね。一緒について行った幼い私を兄が呼んで、「この折を家に持って帰ってみんなで食べれ」と父親の分とあわせて2個の折り弁当を持たせてくれました。6,7上げてお祝いの席を盛り上げている父と兄の三線の音色が今でも記憶に残ってますし、幼心に「唄三線で呼ばれるとこんな美味しい弁当が食べれるなんて凄い」ととても憧れました。
でも2人には「三線はおもちゃではないよ。とても大切なモノだから、絶対触って遊んだらダメだよ」ときつく言われていたので、家では三線を触ることはなかったです。
Q3:そんな中、操少年が三線を弾きだすきっかけは?
石垣第二中学校の2年生のなった頃、学校で新入生歓迎会をすることになったのですが、その当時はまだ体育館もなく、グラウンドにステージを作って開催されました。そこで同級生の砂川おさみさんが唄三線で独唱を披露したんです。同級生がこんな唄三線を出来ることにビックリしました。しかも、祖納地区の我流で演奏していた父や兄と違って、ピシっとした三線の音色にもまた感動しました。そこから唄三線を演奏してみたいと憧れました。
当時の登野城の家には父親の三線がありましたが、もちろん、那根家では三線は触っていけないことになっていたので、両親が働きに出てて家に誰も居ない時に触って弾き始めました。でも、母親が気づいて「操が三線を一生懸命弾いてるようだけど、三線を教えたら?」と父親に言ってくれましたが、「子供が勉強せずに、なにが三線弾きたいって言っているか」と返したそうです。ですが、ある時に、父親が「操、三線弾きたいか?」と私に聞いてきました。そこから、三線を触っていいということになり、「繁盛節」などを練習していると、父親が「おい、お父さんよりも上手じゃないか!」と褒めてくれました。そうすると、5男の兄貴が「中学生が勉強もせずに、なにが三線か!」と散々怒られました。そんな中だったからこそ、三線への熱も上がったかもしれません。
また、同級生の浦崎宣浩、花城敏明がいたので、一緒に学校で三線クラブを始めました。あの頃、三線ケースがなくて、布袋に入れて学校に三線を持って行きましたが、同級生に「お、三線弾けるのか?」と言われたりして、だんだんその気になっていきましたね(笑)
そして、八重山農林高校に進学して、即郷土芸能部に入部しました。大工哲弘さんが立ち上げた八重農郷土芸能部ですが、僕らが第4期生でその当時は、同級生の宣浩、敏明、仲里栄芳などが居まして積極的に活動していました。その当時の文化会館で管理人をしていた山里節子さんが、週に1回高校生たちの僕らに場所を提供してくれて、三校の郷土芸能部の面々で集まって勉強会をしていました。河上美奈子さんとか、東嵩西のりこさんとか一緒に唄三線の世界にどっぷり入っていました。
八重農郷芸部時代は、八重山民謡だけでなく、沖縄本島の民謡も積極的に取り入れていました。そしたら当時の教頭先生から呼び出しされて「郷土芸能部なんだから、八重山民謡を中心にしないさい」と凄く怒られました。当日はとにかく唄三線に夢中でしたので、そんなカテゴリー関係なく貪欲に沢山の謡を唄いたかったので、沖縄民謡は隠れながら弾いていました(笑)当時の八重高・商工・農高の3校の郷土芸能部の連携がとても良くて大いに部活で唄三線を楽しんでいました。
高校卒業後は、横浜に出て鶏肉の加工会社に就職しました。小さい頃から焼鳥や鳥料理が好きで、漠然と焼鳥屋をやってみたいという思いがあったのです。八重山からは6名くらい同じ職場に就職していたので大変心強かったですね。八重山の連中が集まると自然と八重山民謡を唄って、故郷を想うことで不安な都会生活を乗り切っていたところありましたね。職場でも結婚式やなにか祝い事があると必ず「操君、沖縄民謡唄ってくれ」と声が掛かって「安里屋ゆんた」などを散々演奏させてももらいました。
Q4:島を離れてより唄三線への想いが強くなったんですね?
そうですね。島を離れてみて気づいたことがあるんです。全国民謡集というレコードがありましたが、北は北海道から南は沖縄まで各地の民謡が収められていましたが、その中の八重山民謡が仲宗根ミキさんの歌謡調の「安里屋ゆんた」が収録されていました。私が唄う「安里屋ゆんた」は八重山民謡としての節まわしだったので、内地の皆さんが耳にしている歌謡調とは違うので「同じ安里屋ゆんたでも全然違うね」と良く言われていました。「これが八重山の安里屋ゆんたですよ」と伝えると「でも、操君の八重山民謡調の方が、唄の方がリズムとても良いね」と言って貰えました。
4年勤めたタイミングでいよいよこれから店舗へも配属というタイミングでしたが、長男兄から電話があり「そろそろ西表に帰ってこないか」と言われたのです。「丁度、西表島郵便局職員で採用できるかもしれないから」ということでした。あの頃は長男兄に言われたらハイと言うしかなくて。兄貴が「まだ唄三線はやってるのか?島で三線思いっ切り出来るぞ」という誘い文句もありました。
横浜でも唄三線はずっとやっていたので、島に戻って唄三線をやれる!という思いも強くて西表島に戻ることにしました。長男兄の電話は丁度クリスマス時期で、ローストチキンなどとても忙しい時期だったのですが、会社に相談したところ、せっかく地元で就職口があるんなら、そのチャンスを潰す訳にもいかないだろうということで、12月31日大晦日で退職、元日に羽田から飛行機に乗り、正月2日に西表島に戻りました。仕事的には、西表郵便局に臨時補充員として採用され、その後国家公務員試験を受け、のちに郵便局職員として本採用されました。島に戻って、祖納の公民館で三線弾くと「あれ、お前は内地に行っていたのに、唄三線出来るのか?」と言われました。小学校6年生で祖納集落は離れていたこともあって驚かれましたが、その後は、祖納の行事毎に地謡を、僕の2年後に祖納に戻って来た同級生の宮良用範と2人で担当することになりましたね。
Q5:これまでずっと我流で唄三線されていましたが、安室流協和会に所属されるきっかけは?
西表郵便局から大原郵便局と勤めて、次に石垣島の新栄郵便局に転勤になった時に、同級生の浦崎宣浩から声がかかって「丁度いいタイミングで石垣島に転勤になったな!研究所を立ち上げるから、一番弟子になれ」と(笑)黒島聡と二人で浦崎宣浩研究所に入門することになりました。
浦崎先生のあの性格ですから、結婚式や祝ごとの度に依頼を一切断らず、私と黒島聡の3人セットで色んな所で地謡させて頂きました。生年祝から、とにかく結婚式での地謡がとにかく忙しかったです。そして、その流れの中で浦崎先生からコンクールへの出場を勧められ、黒島聡と一緒に「新人賞」「優秀賞」「最高賞」と順々に頂きました。そして教師免許を頂くのですが、私の頃は現在のように教師免許試験はなくて、「最高賞」を頂いてから5年すると、師匠が協会に推薦してくれて承認頂くカタチで平成3年(1991年)5月に「教師免許」を頂きました。
Q6:地元祖納地区で研究所を設立された時はどうでしたか?
那根操研究所の一番弟子は、祖納地区の同級生の宮良用範でした(笑)研究所を立ち上げた当時は、大人6名ほどの弟子がいましたが、まだ家内の看護婦宿舎でしたので稽古の場所にも苦労していました。そうしたら、地元のお母さん方から「子供たちに唄三線を教えてくれませんか?」という要望があり、希望者を募ったところなんと20名余もいたんです!そのような人数は到底入りきらないので困っていたら、西表アイランドホテルさんが「ウチのホテルの1階の広間を使っていいから、その時の宿泊のお客様が唄三線を聴きたいと言われたら、横で聴いててもいいですか??」と提案してくれて、その子ども教室は10年近く続きました。今は希望する子どもも減って来て今は閉めていますが、あの時のこども三線教室の参加者が立派に成長して、地元の地謡を担ってくれていますね。彼らの成長を見守れてとても嬉しいです。
また、地元の西表小中学校では、中学校の中文祭の出し物として、どうしても西表の謡(うた)を唄いたいという要望があり、中文祭前は2~3週間くらい週3回で放課後に指導していました。
浦崎宣浩先生の研究所に通っていた時代に、浦崎先生と一緒に真喜良地区の青年会エイサーの地謡をしていたこともあり、西表に戻ってからはそのエイサーを紹介して宮良用範君と二人で地謡しながら西表小中運動会の演目にもなりましたね。今でもそのエイサーの演目は今の世代にも受け継がれています。祖納地区の子どもたちに地元の謡(うた)や民俗芸能を伝承する活動は自分にとってもとても大切な時間でした。
Q7:現在でも竹富町民俗芸能連合保存会の事務局長を歴任されていますが?
竹富町民俗芸能連合保存会は、結成して50年近くになりますが、私が参加したのは35年くらい前になります。30代後半のまだまだ若造でしたが、竹富町教育委員会から強く依頼されまして参加しましたが、ずっと事務局長を36年間させてもらっています。なかなか、タイミング良く後進に引継ぎが出来ないのですが(笑)。勿論、竹富町の民俗芸能が大好きなので、継承などに貢献しながら、自分が出来るところまでは頑張りたいと思っています。事務局長になって、竹富町の色々な島々、地域に足を運ぶことになるのですが、その時に各地域の方々から、「我々の地域の芸能は一つではなく古謡から舞踊まで様々あるんだよね。だから、毎年事に発表会の機会を作って欲しい。自分たちが生きてる間に何十とある舞踊や謡(うた)を紹介したから」と嘆願されました。竹富町の島々の芸能文化は竹富町の宝ですから、各島々からの要望含めて、主管である竹富町教育委員会にも伝え協議してきましたが、現在は「デンサー節大会」は竹富町主催で毎年、「竹富町民俗芸能大会」と「竹富町古謡大会」は竹富町民俗芸能連合保存会主催・竹富町教育委員会共催で1年毎の開催となっています。今の規模感でそのままだと将来的には厳しい状況が予想されます。もっと「民俗芸能」に関わる予算を確保してもらい、もっと竹富町民俗芸能を大切に扱い更に盛り上げるようになってもらいたいと期待しております。
竹富町は海を隔てた島々で成り立っているので、冬の海が荒れる時期の開催だと、波照間公民館からよく笑いながら「また冬場だと波照間から参加むずかしくなるよ。夏場にお願いします」苦情も言われてしまいますが、各島々の地域の行事に配慮して日程出しをするとどうしてもそうなってしまう、これも竹富町の現実ではありますね。
4年に一度開催の「ぱいぬ島まつり」では、地元西表島を中心に、子どもたち向けのヒーローショーやステージにはたくさんのアーティストが出演しますが、竹富島の島々の民俗芸能を来場者の皆さんが一度に観ることが出来るとても貴重なまつりでもあります。10年間で2回半しか機会がない訳で、各地域の民俗芸能保存会には、確実に継承したい演目を依頼お願いしています。前回の時は、小浜民俗芸能保存会などはお盆時期しか行われない『ジュルク』を披露してくれました。「おまつりにお盆の演目??」というご意見もありましたが、その時期に地元でしか観る事のできない演目を用意してくれることはとても素晴らしい機会になっていると思っています。次回は2027年の開催予定ですが、またその時も素晴らしい演目で各民俗芸能保存会の皆さんを紹介出来ればと思っています。
Q8:民俗芸能の継承に尽力されていますが、今後の竹富町に思うことはありますか?
少子化の波はこの離島でも深刻な状況ではあります。なので、祖納公民館としては、何か地元の行事には地元の子どもたちを出来るだけ参加させて、郷土芸能を披露する機会を出来るだけ作るようにしています。祖納の「丸真盆山節」「祖納嵩節」「西表スンバレ節」など踊らせようと工夫しています。もちろん子どもたちのお母さん方にも協力をお願いしながら。また、数年前からは2年の1度の竹富町民俗芸能発表会に、民俗芸能保存会だけの演目だけでなく、各地域の青年会の演目、また各学校での学習発表会で披露されている演目を1,2点プログラムに組み込むようにしています。学校の先生からも民俗芸能発表会のステージで披露されることに感謝されたりしますが、民俗芸能連合保存会としても、学校での継承活動にとても有難く感謝していることを伝えています。
公民館などの地域の責任だけで頑張るだけでなく、やはり各地域の学校という教育の場で、地域の芸能文化の継承に取り組んで欲しいですね。学校の先生方はやはり転勤や異動があるので、地元にずっと居る訳ではないので、上原小、大原小など各校に残る地元の伝統芸能の継承をずっと継続するように高い意識で取り組んで頂かないと、継承は簡単に止まってしまいますから。
八重山の稲作文化の発祥の地である西表島ですから「仲良田節」という有名な謡(うた)があります。祖納地区、干立地区、船浮地区にも謡(うた)はあるのですが、稲穂を手に持ちながらの舞踊が祖納地区だけにしかありませんでした。祖納地区の豊年祭の時だけに踊られるのですが、去年、干立地区が、石垣の舞踊研究家の仲間喜美子師匠に依頼して、干立の舞踊として振付されました。令和6年12月第20回竹富町民俗芸能発表会で初お披露目されたんです。会場全体がシーンと静まり返り、「最高の踊りだった」という感想が凄かったのです。振付をした仲間喜美子師匠も子どもの頃から農業に接していて、米の大切さを右手で持った稲穂の下に左手を添えて、稲穂から一粒でも落ちないようお米を大事に受け止める仕草がとても印象的でした。昔の人たちにとって米がいかに大事だったかを気づかせる素晴らしい舞踊でした。これまでの舞踊の継承だけでなく、新たな舞踊の創造などのアプローチもとても大事ではないかと思いました。
Q9:改めて、那根操さんにとって八重山の謡(うた)とはどのようなものですか?
八重山の人たちは八重山の謡(うた)を唄うことで、願い事も、自分の望んでいる事もみんな叶えられる。八重山民謡は大切な宝だと心の底から思っています。沢山の八重山の謡(うた)を唄う時、どの曲でも自分と何か繋がった部分があり、その時の風景や匂い、感情さえも思い出されてきます。島の謡(うた)は言葉では表せない特別なモノです。私のこれまで歩んで来た八重山の唄者としての全ては父親が唄っていた八重山の謡(うた)の音色です。
動画:令和6年度 第20回竹富町民俗芸能発表大会~我が町の宝 未来に受け継ぐ伝統芸能~
第20回竹富町民俗芸能発表会 R6.12.7(土)
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令和4年度ユネスコ音楽創造都市ISHIGAKI推進フォーラム 音楽民族+SESSIONS 2023