【八重山の唄者】第24回 新良 幸人
新良 幸人(あら ゆきと)
生まれ年:1967年
出身地:石垣市白保
在住地:那覇市
1980年 新良幸永(八重山古典音楽安室流協和会)に師事
1980年 (小学6年生) 八重山古典音楽コンクール 新人賞 受賞
1981年 (中学1年生) 八重山古典音楽コンクール 優秀賞 受賞
1986年 (高校3年生) 八重山古典音楽コンクール 最高賞 受賞
2008年 宮良長包賞 受賞
Q1:出身地はどちらになりますか?
石垣市の白保です。上に姉が2人いて僕は末っ子長男の3姉弟で親父とお袋で5人家族です。大工していた親父は白保出身ですが、母は渡嘉敷島出身で家族と新川に移り住み、親父と知り合い結婚して白保に嫁いで来ました。長女の姉とは8才、二女の姉とは5才の差があったので、小学4年生の時には長女の姉は高校卒業して就職で大阪に出ていましたし、二女の姉貴とは僕が小学校1年と6年生で、同じ小学校に居たのは1年間だけでしたから、姉たちと遊んだ記憶はほとんど無いですね。
Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください。
白保小学校の僕らの年は同級生が男子20名、女子18名で1クラス38名。一つ上は丙午、二つ上は風疹などで生徒数は少なかったけど、5つ上の姉の代は2クラスで生徒が大勢居た時期もあったみたいです。小中ではずっと野球をしていました。僕らの時代は白保小の野球チーム名は轟(とどろき)。正直、弱小チームでしたね。ポジションは小学時代にショート、中学時代は足が速かったのでセンターで1番バッターした。
物心ついた頃には、親父が研究所をしていて週2回は夜8時にはお弟子さんが集まってくる家でした。なので、ずっと八重山古典民謡を聴いて育ちました。親父は八重山古典だけなく沖縄古典も唄えたので結婚や新築のお祝い事の地謡には良くお呼ばれして名蔵や川平まで出かけていましたね。
Q3:お祝い地謡に出かけるお父さんには、幼い幸人少年は着いて行ったりしていましたか?
地謡で出かける親父に着いてことは一切無かった。その頃、音楽には一切関わらせてもらえなかった。いや、僕には関わらせたくなかっただろうと思います。僕らの幼い時代には三線弾きは“ピラツカー”と呼ばれて、働きもせず、唄ってばかりの怠け者扱いでしたから。婆ちゃんが親父と仲が悪く、一緒に住まずに叔母さんの家で暮らしてのはたぶんそのせいだと思っているんだけど。親父は三線の教師する前は、白百合クラブ(白保地区で結成された伝説のエンターテインメント集団)の立ち上げの初代メンバーであり、ボーカルと喜劇役者の花形で村一番の人気者でしたが、畑仕事もせず芸事ばかりで家にはお金が入ってこないでしょ?何十人といるメンバーで少ない謝礼金分けたら微々たるものだし、謝礼金は分けずに町内の拡声器を買ってあげたり、小学校にオルガン買ってあげたりと村のヒーローだったけど、白百合クラブメンバーは各家庭においてはまさに“ピラツカー”扱い、だから婆ちゃん達と仲が悪かったはずだよね。新川に住んでいた母親にも親父の名前が伝わっているほど有名だったみたい。親父が薪を売りに出掛けたら宮良から大浜まで子供たちが親父の後を追っかけて来たという逸話もあるほど。その当時、チャーリーチャップリンのタップダンス踊ったり、美空ひばりの曲を島で初めて演奏したそうです。当時の歌謡曲のレパートリーが凄くて、美空ひばりの『東京キッド』などは映画が石垣島で上映される前に、島に入ってきたレコードを聴いて耳コピしたらしい。“平凡”や“明星”といった芸能雑誌に載っている曲の譜面を使ったり、音楽の先生をしていて譜面を書ける弟ら3人でお金を出し合い、1人だけ映画チケット買って、映画で流れる曲を聴いて、メロディラインを覚え、急ぎ映画館の外で“譜面おこし”していたそうです。映画館の外で待っていた2人は一度もその曲を聴いたことない状況で演奏していたという話も聞きました。

伝説の白百合クラブの結成の逸話が収められた『島唄の奇跡/吉江真理子著』
白百合クラブでの親父は僕が生まれる前の話で一切知らなかったし、物心ついた頃は、厳しい古典民謡の先生だったから。小さい頃、自分も滑稽なこと好きで、大人の前でおチャラけて踊って見せたりしても、「幸人、お前父ちゃんより全然面白くないなぁ」と言われ「????。親父が面白い?」と不思議に思っていました。また、高校時代大ヒットした「ブレイクダンス」という映画をビデオで親と一緒に観ていた白保の友達が「幸人の父ちゃんの方がもっと面白かったよ」と言われて、翌日「親にそんなこと言われたけどどういうこと?」と僕に質問してくる。また「???。どういうこと?」となりましたね。家に帰って親父に質問したら、白百合クラブの頃の事はあまり話してくれなくて、他所のおじさんやおばさんたちが色々な逸話を教えてくれる感じでした。ただ、当時の喜劇でチャップリンや清水の次郎長の衣装着たメンバーのモノクロ写真が沢山残っていて、あの初期の白百合クラブメンバーの熱量はとても凄かったことが伝わる、今見てもとても素敵な写真ですね。
Q4:厳しい古典民謡の先生があの伝説の白保エンタメ集団の白百合クラブの初代メンバーだったんですね
白保村に脈々と受け継がれる“パーシャ”な人たち=良心的な出しゃばりの人達、と僕は思っています(笑)。
私の知っている親父は、幼い僕が三線に触れようとしたらビシっと手を払い、一切触らせてもくれなかった。また、昔は今みたいに「〇〇用」とか1人で何本も三線を持てる時代でもなく、家では三線はとても大事で貴重、スタンドで飾ったりしてなく、ひとつひとつ大事に箱に入れたり、袋に入れて、大事な1丁として扱っていました。親父も三線は1本しか持っていなかった。
ウチは貧乏で、白保で最後の茅葺き屋根の家だったし、テレビを置いたのもかなり遅かった。テレビから流れて来る歌謡曲など聴いたことなかったですし、親子ラジオと、夜の三線教室の八重山民謡ばかりが流れていました。そればっかり聴いていたらやっぱり自然に唄三線に興味が出てくる。
小学校5年生の終わりの頃、今でも可愛がってもらっている親父の一番弟子の兄さんが、幼い僕が三線に興味持っていたことに気づいて、稽古終わりで三線を家に持ち帰らず、僕に目配せしてくれて「昼間、親父が居ないときに弾いていいよ」とわざと家に三線を置いてくれて。学校から帰って、親父が帰宅する前にその一番弟子の三線を取り出して、“馬”を立て、チューニングもなんとなく出来ちゃって。自分で聴き馴染んだ八重山民謡を弾き始めました。母親は家に居るので「幸人、ちょっとあそこが違っているよ」と教えてくれましたね。親父にバレてしまうと僕と母親も怒られるので二人の秘密でした。
Q5:父親に内緒で、とうとう念願の三線を弾き始めた幸人少年は・・・
しかし、すぐに親父にバレてしまうんだよね(笑)。小学6年生の5月雨の日、親父が現場を早く切り上げて家に帰って来たんです。仏壇の前でいつもの調子で三線を弾いていると、玄関に仁王立ちで立ってる親父の姿。その瞬間を今思い出しても鳥肌がたちますけど(笑)、チラっと僕を見て、そのまま黙って風呂に入ってしまい「今晩、僕は親父に殺される」と本気で思っていた。そのまま会話も無く、晩御飯が始まって、いつ怒られるかと思いびくびくしていたのですが、一言もしゃべらず。ちょうどその夜は稽古日で、晩御飯を食べ終わる頃にはお弟子さんたちが集まりだして、「良かった、命がつながった」と思って席を立とうとしたら「待て」と呼び止められて。親父が「やるんだろ?」と一言。「何がですか?」と思わず敬語で聞き返してしまい(笑)。「お前、三線やるんだろ?座っとけ」と静かに言われました。僕がじっと座っていると、例の一番弟子の兄さんが僕の様子をみて一部始終に気づいて、僕に目配せしながら「弾いているのがバレて今日から稽古に参加だな」とくすっと笑ってた。
稽古が始まり、自己流で弾ける曲だけ、恐る恐る皆に合わせて弾いてみました。そして、稽古が終わりお茶飲みながら、弟子の皆さんは三線を片付け始めているのですが、親父が目で「お前は片付けるなよ」って合図してくるんです。弟子が全員帰ったあと親父が一言「下手糞が」。仏壇の後ろからメトロノームまで出してきて「お前はテンポが悪い」と。4分、8分、16分のリズムテンポの話、そして、「お前は民謡ぽい変なこぶしを勝手に入れて唄っている。工工四にそんな唄い方は書かれてない。“ぽいっ”コトするな」と言われて。ヴィブラートみたいに声を震わしたりせずに、真っすぐに声を出す練習や、「唄は三線より半音低い尺の音を当てているの気づいてやっているのか?」と。ずっと唄わされ続ける初稽古に辛くて思わず泣きだしたら「だったら辞めろ!」と言われ、鼻水たらし泣きながら「辞めません!」と僕も引くに引けない状態になってしまい、、、ここから地獄の鍛錬が始まりました。
親父はこれまで一切僕を三線に近づけて来なかったのは「三線を始めるのであれば、趣味でなんとなく三線弾けるだけでなく、三線をやるんだったら徹底的に厳しい稽古をやらなきゃダメだ」という考えでしたから。しかも、その4ヵ月後に開催されるコンクールの新人賞に出場することになって。その当時、小学生が新人賞に挑戦するなんてことは前代未聞でした。ただ、やはり聴き馴染んだ八重山民謡の課題曲もすぐに覚えて、とうとう大会本番。サイズが合っていない羽織袴着た小学生がステージに登場してきたので、会場のお客さんがざわついてこと覚えています。その当時はまだ市民会館など出来てなかったので、登野城公民館か岡崎会館だったか記憶がハッキリしていませんが。同じ新人賞に出場したのが、その後、安室流協和会で活躍する浦崎宜浩先生でした。
僕が新人賞に挑戦した翌年から、一つ下の金城弘美が出場したり、小学生が参加できる奨励賞などの部門が出来たりして、コンクールに小学生も参加するようになりましたね。
でも、あまりの厳しい親父の稽古に後悔したことが何度もあります。僕への厳しい教え方と違って他のお弟子さんへの親父の教え方がとても優しいんですよね。それみてワジワジもしましたが、翌年には優秀賞に挑戦して合格。その後高校卒業まで厳しい稽古は続きました。高校2年の時に初めて最高賞に挑戦しました。親父の厳しい稽古のお陰で、もう間違いない「合格は当たり前、トップで合格が最低限」と周りに言われるぐらいでしたが、審査で順調に一上げの「揚古見ぬ浦(あぎくんのーら)節」という名曲でしたが、曲の終盤に、西洋譜面である、ダカーポで曲の頭に戻り繰り返しのところが何回目かわからなくなり、ずっとループして繰り返してしまい、途中で審査中止を知らせる赤ランプを点灯させられて演奏を終わらされてしまった。初めて不合格になり、今でもトラウマであの曲は苦手です(笑)。翌年高校3年の時に再挑戦して、今度こそ最高賞合格を頂きました。その当時としては、高校生で最高賞に合格したのは僕が初めてでした。
Q6:話が少し戻りますが、八重山高校での郷土芸能部でのお話を聞かせて頂けますか?
実は、白保中学校卒業まで野球部だったので、八重山高校に進学したら野球部か、陸上部のどちらかに入部するつもりでした。どちらかで迷っていたけど、足が速かった僕に、三線を使わせてくれた親父の一番弟子の兄さんが、陸上が得意な方で、その当時、白保地区は“陸上王国”と呼ばれるくらい陸上熱が高かった。ずっと僕を応援してくれて、当時のナイキの短距離用のスパイクをプレゼントしてくれて、陸上競技マガジンもランナーズも毎月僕の為に定期購読して届けてくれました。もう入学までには陸上部に入部するつもりでいました。入学式の入場する前に並んでいると、郷土芸能部顧問の高嶺方祐先生が表れ、いきなり肩を組んできて。「幸人君、私は郷土芸能部の高嶺方祐という者だが、君の入部待っているよ」と言われたのですが「いえ、僕は陸上部に入部します」と断ると「いや、陸上部と郷土芸能部は両立できるから!」と食い下がり。でも、すぐに陸上部に入部して、100mと110mハードルの2種目をすることになりました。ですが、一つ上に凄い先輩がいて、身長も180cmの長身で、彼のお尻が僕の胸より上にあるように足も長くて!僕がやっとの思いで11秒台を出したら、先輩は10秒台で九州大会5位。僕が読んでいる陸上マガジンに名前が載っているくらいの全国レベルの凄い先輩でした。種目も僕と同じ、100mと110mハードルで、115cm高のハードルも軽々跨いで、ハードル間を3歩で走る。身長170cmの僕はハードルを高跳びのように超えないといけないし、ハードル間も4歩でジャンプも交互になってします。圧倒的な力の差を見せつけられて、僕が死ぬほど頑張っても半分も追いつけそうにない「上には上がいる」と諦めが付きました。その先輩が居なければダラダラとなんとなく短距離を続けていたと思うと、僕の人生は大きく変わっていたかもしれません。僕はそういう周りの色々な出会いに相当助けられています。
10月頃、陸上部を辞めた足でそのまま郷土芸能部に入部しました。そうすると、郷芸部は既に全国大会高文祭の山口大会の派遣が決まっていて、高嶺先生が「派遣名簿に君の枠を確保してあるから」ということで地謡メンバーとして全国大会にも出場しました。辛い陸上部の練習から、楽しい芸能活動のスタートでした。2年に進級して、1年生で同じ安室流協和会で顔見知りだった(金城)弘美が入学すると郷芸部に誘いに行ったのですが何回も断られましたね(笑)。なかなか入部してくれなくてね。なんとか説得して、竹富島の野原健や大島保克たちも入部してくれました。僕が3年で部長の時は、全国大会岩手大会にも出場を果したし、幽霊部員も入れると八重高郷芸部の史上最大の登録部員数でした。
その頃の郷芸部は、踊りの演目「マミドーマ」するにしても、今の全国大会で優勝と取る為の踊りではなくて、竹富島の手のマミドーマだったし、唄も一句も違いない竹富島の唄い方だった。白保村の踊りだったら、わざわざ白保の舞踊の先生のところまで習いに出かけたりして、自分たちで“映える”派手なステージングに“手”を変えていくようなことは無かった。全部、地元のホンモノの踊り、唄にこだわって、踊り演奏していました。最近の高校生たちの踊り見てると、とても元気もあって笑顔も素敵なんだけど、あまりにも“エンタテイメント”し過ぎというか、八重山独特のちょっと控えめにはにかんだ笑顔ぐらいが本当は丁度良かったりするのに、満面の笑みにはやはり違和感があるかな。沖縄本島の公演に、白保の獅子を持って行くことになった時は、白保獅子保存会にも協力をお願いして、予備の獅子を借りて、獅子に入る子も地謡の子も、全員白保出身の学生を集めたり、誰からも文句が出ないように徹底して演目を用意していましたね。
僕らが高校時代は、農高や商工の郷芸部は休部中で、石垣島では八重高郷芸部だけだったので色々なところから声掛けて貰って忙しくしていました。そんな大所帯で県代表として2回も全国大会に出場しているのに、部活動予算が少なくて、3年の時は体育館での生徒総会で活動予算が10万円削られようとして抗議のマイクパフォーマンスをして減額を止めさせたことがあった。踊りの小道具や衣装など色んなものが不足して、世話になっている舞踊研究所から毎回借りて、やりくりが大変だった。なんとか道具や衣装の資金を作ろうと、郷芸部メンバーの数人に声掛けて、学校に内緒で夏休みに市内のホテルロビーでの八重山の踊りを披露してギャラをもらったことがありました。道具が一気に増えたので、どうした?と聞かれて、夏休みにバイト代で揃えたと言ったら先生たちに死ぬほど怒られましたけど(笑)。
今となっては、八重高郷芸部に入部してなかったら今の僕も弘美もこうやって唄の世界に入ってなかったはずだからね。八重高郷土芸能部には2人ともとても感謝していますね。
特に当時の郷芸部顧問の高嶺方祐先生は、卒業後も私の生き方の恩師でもあり、亡くなる時も立ち会うことが出来て、本当にお世話になった方でした。

1985年8月 八重高郷芸部で高文祭全国大会盛岡大会出場時の記念写真【金城弘美氏提供】中央手前が新良幸人(高校3年)氏と右端に恩師:高嶺方祐先生
Q7:そして、いよいよ高校卒業。進学で島を離れますよね?
僕が高校卒業する1986年に、沖縄県立芸術大学が開校することになっていて、僕自身、郷芸部での活動や、高校生で初の最高賞を獲得した実績を学校側も認めてくれて芸大に推薦してくれると校長も担任も言ってくれてて、その気になっていました。が、音楽学部は開校に準備が間に合わなくて開設が3年遅れることになって、結局、芸大には推薦入学は出来ないことになってしまった。そしたら、高嶺方祐先生が「大学で音楽なんて学ばない方がきっといいよ。お前は自分で頑張って素晴らしい唄い手になって、芸大から非常勤講師として呼ばれるくらい頑張ればいいさ。色んな面白いヤツが集まる沖縄大学に行きなさい」と私立沖縄大学を勧められて入学します。ま、これも巡り合わせだけど、もし芸大設立時に音楽学部が間に合っていたら、今の僕はいないからね。
先の話ですけど、5年ほど前、新型コロナ禍の前くらいに、芸大の教授から学生向けに特別講義して欲しいと依頼があって、2回ほど授業で唄いました。学生よりも大学の教授連中が集まっててちょっとやりにくかったですけど。それを生前の高嶺方祐先生に報告し忘れてて。昨年のお盆にお線香をあげに行った時、方祐先生の奥さんに報告したら「きっととても喜んでくれただろうに、なんで生きてる時に言ってくれなかったの?」と怒られましたが。
大学で島を離れる時は、とにかく島での親父:新良幸永の音楽の世界から出たいという気持ちも正直あった。あそこまで、愛情もって厳しく教えた貰ってきたので、父の古典音楽を継がないといけないのかなぁと思ったりして相当悩んだ時期もあった。唄者としてキャリアも積んで、最高賞も取って、次は教師免許を、という話もあった中でしたが、それは辞退することにしました。実際、大学に通いながら1年の夏には「カウンティーフェアー」というロック・フォークのライブハウスから声が掛かって唄三線でライブ活動を始めた。自分で唄うのであれば、敢えて民謡酒場でなくバーボンの置いてあるお店で唄いたいという思いがあった。でも、正直、沖縄本島で独りっきりで寂しかった。1年我慢すれば、一つ下の、郷芸部の後輩メンバーの弘美や野原健、大島保克たちが島から出て来てくれるからその下準備をしようと頑張っていた。そして、翌年、彼らが沖縄本島に来たタイミングで郷芸部活動の第2弾で「ゆらてぃく組」を結成して、デモテープを作り、色んなライブハウスにデモテープを送り、色々な場所でライブを行い、東京公演もするようになれましたね。
Q8:沖縄大学在学中、ゆらてぃぐ組での音楽活動をスタートして、大学生活は?
親父は頭も良かったらしいけど、家が貧乏で、学校にいけなかった人だから、僕には「男は大学だけは行っとけ」とずっと言っていた。僕もその当時私立としては年間授業料が一番安い沖大だったので、ちょっとは親孝行出来てたと思うけど、大学2年の時に、親父が脳梗塞で倒れてしまって、仕送りもストップで、とにかく稼がないといけなかったのでバイトに明け暮れてた。唄以外は、ヒーローショーのバイトをしていた。まだ体力もあって、飛んだり跳ねたり、バク宙が出来たり、アクションが得意だったから、最初は戦闘員からスタートしたが、すぐに事務所社長が認めてくれてヒーローのブルーを演じていた。
親父が倒れお金が出せないか大学辞める、っていうのもちょっと親父が可哀相だし、ダラダラと大学に居続けていたんだけど、いよいよ授業料が払えなくなってきて、6年目の24歳の時に、大学から突然「除籍通知」が届いてビックリ。だって、それまで大学からのお願いで大学プロモーション活動や、入学パンフでインタビュー掲載、学園祭など全て無料(ただ)でライブ出演したり、色々大学貢献協力してきたにも関わらずの大学除籍だった。その2か月後に僕の下宿先に大学長から電話があり、「今回の事態本当に申し訳ない。教授陣は君が除籍になったこと誰も知らなかった。学生部と協議して、全会一致で君の復学が決まったから戻って来ませんか」と言ってもらえたんだけど、実際お金も無いし、卒業したいという気持ちも無かったし、プロの唄い手でやっていこうという気持ちだったから断ったんだよね。そしたら、学長が「せめて、除籍ではなく、自主退学扱いに変えていいですか?」と言ってくれてとても有難かった。
Q9:ゆらてぃく組の後、新良幸人として音楽活動がいよいよ本格的になっていく?
「酔ing(スィング)」というジャズのライブハウスで、3つ下の八重高郷芸部の後輩で太鼓の仲宗根哲(サンデー)と二人で「新良幸人withサンデー」定期的に唄うようになって、毎回座席が満席になるようになっていた。色々な八重山民謡をライブバージョンにアレンジした曲を披露していた。その流れでライブ盤のCDを出そうという話になり、それが最初のライブ盤アルバムで、CDデビューした作品になるね。そして、1991年からは今年で34年目、35回目が今年の6月に開催予定の「一合瓶ライブ」もスタートして、沖縄のミュージシャンとも多く知り合って、1993年に「新良幸人パーシャクラブ」が結成されるわけ。「幸人を呼べるイベンターが居ないのなら、自分たちでイベントを作ろう」と一緒にやってくれる人がどんどん増えてくれて、沢山のステージ唄えるようになって行った感じだね。
Q10:唄者としてキャリアも積んで50代後半の新良幸人は?
基本的に新良幸人は“シンガー(歌手・唄い手)”であることに拘っている。みんな勘違いしている人が多いんだけど、僕は決して“シンガーソングライター”ではないってこと。
僕が目指しているのは、「唄がとても上手くて、素晴らしい歌声に、作曲や作詞をする作家さんが、是非、幸人にこの曲を唄って欲しい」と作品を持ってきてもらえるコト!
「自分自身で、作曲や作詩をしないとアーティストじゃない」みたいに思ってる若い人が多過ぎる。やっぱり人には得意不得意あるから、無理して作詞書くよりも、素晴らしい作詞を書く方に任せてもいいはずじゃないかな。
良い“シンガーソングライター”っていうのは、唄が上手くなくても、説得力のある自分の中から生み出した言葉がある訳だからね。同じアーティストと呼ばれてもその違いはあると思う。
だから、「勘違いしないで、俺は歌手だから!」って言いたい。
でも、やっぱり僕のベーシックは親父である新良幸永に八重山民謡の基礎・基本を叩きこまれたコト。
それこそ、「八重山古典音楽をやる、ということは“研究する”ことであって。いつか君が唄う「白保節」は、君を育ててくれたおじさん、おばさんたちが『君の白保節は間違ってるよ』と言われる日が来るよ。「白保節」は白保の人たちが作った訳ではない。白保を訪れて、白保の風景を美しいと感じた方が作詞・作曲した謡(うた)。その謡(うた)を作った当時の想いや気持を研究しながら唄い、護っていくのが僕たち唄者の仕事なんだよ。でも音楽の美しく素晴らしいところは、その白保で生れた白保の謡(うた)を白保の人たちが唄い継ぎながら、どんどん変わって変化することでもある。音楽に“正しい”とか“間違ってる”なんてないよ。もし、君が自分の音楽を一生懸命頑張っていたら、いつか君は『白保で受け継がれている謡(うた)を間違ってる』と言われる日が必ず来るけど、そんな時でも傷つくなよ」という教えもあった。そういう言葉をくれる、凄く音楽的にも素敵な人間だった。この教えがなければ、間違いなくへこたれてたと思う。そういう親父の音楽に対する考え方はとても美しいなぁと思うし、親父のこの言葉に僕はいつも救われています。
Q11:最後にこれからの八重山の唄者に、幸人さんが思うことはありますか?
地元出身か内地出身かは置いておいて、唄三線のやる人口は僕らの島に居た頃に比べたら年々増えて来てるじゃない。でも、三線一本で人を楽しませる唄者はそれに比例して増えてない気がする。もっとそういう八重山の唄者がどんどん増えて欲しいね。もちろん、古典音楽なので、色々やりにくい部分も多いはず。“習い事”として自分の先生に何か言われるんじゃないか、と気にしている。師匠と弟子という関係だとこれも正直あるよね。とても良い表現者がきっと沢山いるはずなのにそれが埋もれたままなのは単純にとても勿体ないなぁと思う。
でも、(金城)弘美や(比屋根)祐や(大底)吟子たちみたいに、他流で集まって唄会して、唄比べしたりしてるけど、ああいうの凄くいいと思うし、とても大事だと思うね。
公式HP
【公式】新良幸人 Website – 【公式】ARIZE Official Site
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