岡山 稔(オカヤマ ミノル)1941年生
台湾出生(戦争疎開の為)
石垣市石垣在住
八重山古典音楽安室流保存会
岡山稔三線研究所
平成11年(1999年)3月 沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡保持者

 

Q:岡山先生の出身地はどこになりますか?
 本家は石垣市大川(フーガー)ですが、台湾で生れました。家族が戦争疎開で台湾に移り住んでいて、終戦後5歳の頃に石垣島に引き上げて来ました。また、小学3年の頃に『崎山』から『岡山』に改姓しています。

Q:どのような幼少期をすごされましたか?
 当時、両親と下の妹(後に次女が誕生)の4人で、大切な財産の全てを置いて疎開先の台湾から石垣島に戻りました。大勢の疎開者と共に米軍の大きな戦車揚陸艦(LST)に乗って島近くまで来て、小さな漁船に乗り換えて石垣港に着きました。その様子はいまだに覚えていますね。石垣島に戻っても家もなく、大川(フーガー)、登野城(トゥヌスク)や石垣(イシャナギラ)など、6回ほど引っ越しを繰り返して、落ち着いたのが母親の出身地域の字石垣ということです。
とても生活が苦しい時代でしたが、一番思い出もある時代でしたね。米軍の統治下で、自給自足の日々で家の裏には、屋外便所(フリゥヤー)と豚小屋(オーヌヤー)があり、豚の餌集めや世話、育てた豚をオ(ワ)-シャー(豚屠殺業者)に引き取られるのを泣きながら見送ったり、豚の有機肥料を畑にやったりとして動物との共存した暮らしでした。とにかくお腹がすいていて、その辺りになっているクワの木など食べられる実(ナネーズ)を見つけては取って食べました。今の舟蔵公園(児童公園)の米軍施設のちり捨て場には、賞味期限が過ぎた缶詰が捨ててあるらしい、という噂を聞きつけ、友達と拾いに行って食べた缶詰が「世の中にこんな美味しいモノがあるのか!」と、カーキー色の米軍の缶詰がとにかく美味しかった思い出があります。

Q:幼少期の頃の地元のアンガマや豊年祭などの記憶はありますか?
 小学生頃はとにかく、どこも貧しい時代だったので、豊年祭やアンガマ(旧盆)やヨイシヤー(祝い家)など今のような豪華な料理でなく、細々としたモノを揃えて行っていました。それでも、迎える為の料理を用意するので、台所で炊き出ししているところにお腹を空かせた僕ら子どもが、石垣の上からじっと覗いていた。そうすると、炊き出しのおばさんが気づいて、ちょっとだけ食べさせてくれたりしてね。アンガマのキョンギン・アタサイムニ(珍問答)方言を喋れませんが、意味は感覚で理解していました。残念ながら、中学・高校とアルバイトや部活に追われて地域行事に参加することはなく、地域の青年会に関わる事が無かった。引っ越しが頻繁だったりして、振り返ってみると「地元」という地域の繋がりが少々希薄だったように思います。その分、地域の青年会に参加したいという憧れの気持ちは強く持っていました。

また、夕方の畑仕事帰りに野トゥバラーマで、クイイダシシューブ(声だし勝負)する人々を見聞きしたことがとても印象深く記憶にあります。1950年代頃、八重山高校グラウンド周辺や登野城小学校のアコー木のダンナー(木上浅敷)から農作業の帰りに、ウイバル(後方の小高い野原)よりイーンタ(西)、アーンタ(東)の道すがら、誰かが大声で野トゥバラーマを唄うと、別の場所からまた大声で唄い返して来る。それをずっとやり合って、あの声は誰だ、この声は誰などと話題になりました。話に聞くと、他にも新川やあっちこっちで唄勝負していたそうです。夕日の沈む頃にトゥバリャーグイ(唄声)で繰り広げられる素晴らしい光景でした。あの体験が私の唄に対する道標となっているように思います。

Q:三線との出会いというか古い記憶はどのようなものですか?
 最初に三線に触れた記憶は、小学5年頃に童歌『うさぎとかめ』『チューリップ』などを当て弾きして遊んでいました。高校2年の生徒会選挙の集会で、同級生の私の又従弟が、颯爽と『赤馬節』を舞台で演奏しました。彼は柔道も強く相当のヤマングー(手が付けられない)で有名で、その彼が歌い上げる様がとても凄かった。その当時、同じ年代の者が唄三線を正式に唄うことなど皆無だったので大きなショックと同時に劣等感を感じた出来事でした。唄三線にとても興味を持ちましたが高校2年の時に、親父が亡くなり、音楽を志すどころの状態でなくなりました。高校を辞めようと思いましたが、近い親戚たちに「いや、絶対高校は卒業しなさい」と言われました。高校卒業したら就職しようと思っていましたが、なかなか就職先が見つからずにいました。中学時代に強く印象に残った美術の宮良先生の影響もあり、食べて行くために、美術の教諭を目指して、琉球大学の美術工芸学科に進学しました。本格的な三線に関わるのは大学時代になります。

Q:島を離れての生活。どのようにして三線と関わるようになりましたか?
 大学時代は日々アルバイトで明け暮れた生活でしたが、色々な経験をさせて貰いました。泊港でアルバイト中、故郷航路の船、みどり丸や八汐丸が入港する時、船上から流れる島の民謡(八重山育ち、小浜節等)や、下船するヤイマ(八重山)関係の人々のどこかで見たことのあるような顔や、会話の訛りなどの島の香りする人々に目が釘付けになり、バイト中という事も忘れ息を止めて凝視し、ヤイマへの強い想いがこみ上げていました。当時、大学には琉球古典音楽(野村流等)の正式な芸能部があり、八重山出身者の顔もみられましたが、私は魅力を感じませんでした。やはり私にとっては八重山のカザ(香)が一かけらも感じれなかったからでした。勿論、八重山の行事においても琉球古典の影響は多々ありますが、しかし、それには私の原風景とその時の心境とは相いれないと感じました。島へのウムイイリ(思い入れ)の深さと無意識に感じる生き方の違いだと思います。

そういう中で八重山の思いを表現するため、大学、看護学校と八重山出身合同でヤイマウタの集いを持ちました。識名、繁多川で墓守をしている八重山民謡の大家夫婦(大濱安伴夫婦)が移住して民謡を指導しているという事で、7・8名が夜間教室に通っていました。私自身は、アルバイトが忙しくそんなに参加はできませんでしたが。並行して同好会の話が持ち上がり、1961年後半に守礼の門近くの八重山出身者借家で同好会が始まりました。思い思いにエーマンチュ(八重山人)が集まり唄い、改めて島の原風景、魅力が深まっていきました。しばらくして東京から編入してきたTさん(桃林寺の東在)が同好会に加入、新視野と行動力が凄くて、みるみる八重山民謡の演奏曲数も増え、1962年八重山流米文化会館(八重山図書館西)ホールで公演、独唱会を開きました。琉大八重芸発足はその数年後だと思います。

Q:本格的に研究所への入門などはいつ頃でしたか?
 大学卒業後は、教諭として竹富町の波照間島に初赴任しました。それまでは、唄三線『節歌』ばかりでしたが、そこで、ユンタなどの『古謡』との出会いがありました。波照間島の豊年祭などの祭事は素朴な所作や素朴な旋律の『ユンタ』が唄われます。素朴な島民の人柄が三線や踊りに表れていて、特に手拍子と唄のみのユンタに感動しました。石垣島に戻り、29歳の頃に同じ町内で古典音楽を指導していた三線教室の門を叩き、安室流保存会の玉代勢長伝先生に師事しました。そうすると、石垣字会の祭事には長伝先生が全て唄三線を担当していたので自然に私も一緒に付いて回り、長伝先生から引き継ぐカタチで石垣字会の奉納舞踊などの地謡を務めることになりました。

また、研究所の先輩から『石垣ユンタ保存会』へも誘いを受けて入会。このユンタ保存会への入会がさらにヤイマウタ(八重山謡)に対する深みを増すことになります。特に30代頃より石垣の宮鳥御嶽行事との関わりがその後の生き方に大きな影響を受けました。宮鳥御嶽での唄は昔、手拍子と唄だけのユンタが主でありました。宮鳥オーンと司、そして我々の唄だけの世界。ある時、司の「ミヤーモーリ(見てごらん)」との言葉に指さす方を見ると、蝶々が舞い降りてきて境内を通り御嶽に入っていくという神秘的な体験もしました。このような宮鳥御嶽での色々な経験から言葉で表現できない雰囲気を数多く貰い、本物の唄に厚みが増したと自負しています。その後、40歳の1981年岡山稔三線研究所を設立。これまで、240名余の会員が在籍し、来年(2021年)、創立40周年になります。

研究所前にてお孫さんと。

Q:岡山先生にとって特別な八重山の唄は?
 先ほどお話したように、琉球古典音楽は肌に合わずダメでしたが、八重山の唄は、全曲大好きなので、難しい質問ですね。古謡・伝統節歌ではありませんが、やはり八重山への望郷の想いが詰まった『八重山育ち』ですかね。そして、『首里子(しゅうりつ)』というユンタからきている曲です。ユンタなので物語になっていて沖縄芝居にも取り上げられた人情劇的な唄ですが、メロディーがとてもシンプルで素朴な八重山らしいと感じる曲です。とても短い曲ですが、古謡の要素が沢山含まれていて、節唄との合体された唄の工夫が必要で、シンプルな旋律であるがゆえ、唄い手の気持ちひとつでどうにでもできる分、難しく答えの出ない曲。唄い手の性格がすぐに表れますし、私にとっては全ての唄のいわゆる『扇の要』になるような曲です。これからも魅かれたヤイマのカザ(香)を更に追い求めて唄っていきたいと思います。

Q:旧盆行事を次の世代に継承しようと行われている『いしゃなぎら子どもアンガマ』で世話人をされているということですが
 ウチの三線教室と妻の舞踊教室の5歳から高校生の子どもたちで構成した子どもアンガマです。花笠の衣装もしっかり着込んで、ウシュマイ(爺)とンミー(媼)との珍問答や『鷲ぬ鳥節』『高那節』なども踊ります。小さい子どもたちにもシゥマムニ(島の方言)を理解してもらいながら、八重山の伝統文化に触れて貰うことで、子どもたちの島のカザ(香)となり原風景(アイデンティティ)になり、八重山への熱い想いにきっとなってくれるのではないかと期待しています。

いしゃなぎら子どもアンガマ(一番左に稔氏)本人提供写真。

取材協力:岡山 創

 

■『八重山育ち』 岡山稔 https://youtu.be/qDDs7mrDB14

■『首里子節』 岡山稔 https://youtu.be/KVlrpvlFSKM