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【八重山の唄者】第2回 新城 浩健

新城 浩健(アラシロ コウケン)1948年生まれ
石垣市登野城出身
八重山古典音楽大濵用能流保存会
令和元年・2年大濵用能流保存会会長/令和2年登野城字会会長
令和4年7月 県指定無形文化財「八重山古典民謡」保持者認定

Q:出身地はどこですか?
 石垣市登野城。まさしく、ここ(自宅)で育ちました。

Q:八重山民謡との出会いは?
 小さい頃、うちの爺さんは小学6年の時に亡くなりましたが、ユンタがとても上手だったのです。登野城字会の「種子取」や「牛・馬」の願いの祭事に呼ばれ、ユンタを唄いに行っていました。私は、その時に出される折詰めや飲み物を目当てによく付いて行きました。その当時折詰めは大変な御馳走でしたので字会の集まりなどで出かけた爺さんや親などが持ち帰ってくる折詰めをとても楽しみにしていましたね。その爺さんのユンタを傍らで聴いていたのが、一番古い記憶ですね。

Q:小さい頃に登野城字会の行事、例えば旗頭の太鼓隊などに参加していましたか?
 私が小さい頃の太鼓隊は、参加を希望すれば参加出来るものではなかったです。枠が由緒ある家柄の子供たちでほとんど埋まっている状況で、私は参加する機会がなかったですね。

Q:いつ、どのようにして唄三線を学びましたか?
 家には三線はありましたが、親戚のおじさん達が集まりの際、遊びで弾いている位で、自分でも三線を弄んでいたかもしれませんが、その頃は三線にはあまり興味がなかったですね。
唄三線に興味を持ち始めたのは高校生になった頃でした。その当時、八重山高校には郷土芸能部はありませんでしたが、唄三線が上手い同級生がいて、学校の行事などのステージで披露していました。その唄っている姿を観て「唄三線いいなぁ」と思っていました。実際に唄三線をやり始めたのは、琉球大学(農業工学部)に入学(1967年4月)してからになります。入学後の9月頃だったと思うが、私が入寮していた琉大寮で恒例の「寮祭」があり、八重山出身の先輩たち数名が八重山民謡をステージで披露してくれました。沖縄本島に出てきて八重山民謡を聴けるとは思ってもいなかったので、物凄い衝撃を受けましたし、八重山の先輩たちが堂々と演奏しているのを目の当たりして「よし!唄三線をやろう!」と決意しました。その11月に、これまで趣味の会が、規約を定めて「八重山民謡同好会」として結成され、入部の勧誘もあり、私の唄三線の道がスタートしました。那覇の又吉三線店でその当時5ドルで三線を買い入部しました。その後、1972年4月に「八重山芸能研究会」に改称され、以後「八重芸」の略称で50年も続くことになります。

八重芸部の先輩から色々な八重山民謡を教わっていました。工工四(譜面集)も冊子でなく、知り合いからのコピーや手書きの譜面を基に練習していました。先輩の唄をカセットテープに録音して、寮に持ち帰り、それを聴きながら練習していました。先輩が八重山古典民謡保存会の大濵安伴先生から唄を習ってくると、安伴先生の唄い方になるし、八重山の離島の先輩が唄う唄真似もするし、当時、安室流保存会の伊良皆髙吉さんもよく部活に遊びに来てくれて、流派など関係なく、色々な先輩から八重山民謡として学んでいました。大学2年の時(1968年4月)同好会の初代部長は新川出身の入嵩西敏弘さん、大学3年(1969年4月)には、私が2代目部長を務めました。部員は20余名でした。いつも年の瀬の12月に沖縄本島の沖縄タイムスホールで発表会をして、正月休みの帰省に合わせて石垣島でも発表会を行っていました。琉球大学八重山芸能研究会の立ち上げの頃から関わった者としては50年間もの永い間続いた(2019年3月解散)ことは凄いなぁと思います。

Q:研究所に入門するきっかけは?
 大学を卒業して就職する際、最初の2年間は宮古島に居ました。宮古民謡も数曲憶えました。その後、25歳の頃に石垣島に戻ってきたのですが、地元のアンガマーや祝いの席で地謡(じかた)などに呼ばれることが増えていきました。当時、登野城字会のアンガマーの地謡を仕切っていたのが平田清(安室流協和会)で年代としては後輩にあたりますが、唄三線に関しては大先輩でしたので彼に付いて色々演奏しました。余談ですが、登野城のアンガマーでは、八重山民謡だけでなく、沖縄民謡の代表曲『谷茶前節』『前ぬ浜節』『浜千鳥節』なども盛んに演奏されていて、沖縄民謡のレパートリーを唄えるよう必死に練習しました。アンガマーのお陰で沖縄古典も勉強出来ました。ですが、やはり登野城の行事ごとで唄うことで、登野城の唄三線=(イコール)用能流をしっかり勉強しなければ、という思いで、30歳手前頃に(故)新城喜亨先生の研究所に入門し、平成17年(2005年)には師範免許を頂きました。

Q:一番好きな八重山民謡は?
 全ての曲にそれぞれの特徴があり、全部好きですが、強いて挙げろと言われれば、教訓歌の「でんさ節」かな。この唄は、若い頃、内祝い等で親戚が集まると、各々が自作の「でんさ節」を次々と唄い、座が盛り上がることが思い出されます。

Q:新城浩健さんにとって唄三線とは?
 用能流は先達の残した貴重な伝統芸能であるともに、「とぅぬすくむら(登野城)の宝」です。「芸道に終点はない」とは言われますが、私も生涯をかけて追求していく道であると思います。

Q:笛の師範免許をお持ちですが・・
 平成14年(2002年)沖縄タイムスの琉球古典音楽コンクール笛部門で最高賞を頂き、平成22年には大濵用能流保存会の笛の師範免許を頂きました。私の場合は、唄三線を練習し始めた琉大の八重芸の時から笛も遊び感覚で練習していました。唄三線をやる人なら笛も吹きたいと思うのですが、やはり、縦笛と違い、横笛は納得出来る音が鳴るまでになるのが難しいところがありますからね。取り組んでみるけど挫折する方は多いですね。八重山の場合、笛だけを吹く方はほとんど居ません。笛を吹ける方は唄三線と両立しています。やはり唄が解からないと良い笛が吹けないということがあるのかもしれませんね。師匠の(故)新城喜亨氏が平成24年(2012年)のとぅばらーま大会で最優秀賞を獲得した野とぅばらーま(三線の演奏無しでの歌唱)の時は笛を吹かせてもらいました。

Q:石垣市無形民俗文化財「登野城の大胴小胴(うーどぅくーどぅ)」の継承者ということですが
 大胴小胴は本土の能楽の流れをくむもので、江戸時代に薩摩藩が八重山諸島支配の為に置いた役人によって伝わったと考えられています。能楽の芸能は、四カ村の士族が能楽囃子を嗜んでいて、各字に伝承されたと思われるが残されていない。沖縄本島(首里王府や他地域)にも残されていず、唯一石垣市の登野城村にだけ保存継承されている貴重な芸能です。古文書に大胴・小胴の道具一式が明和(1771年4月)の大津波で流失したので、新たに薩摩から取り寄せとの記録があるとのことから、1600年代から伝わったと思われる。大胴(大鼓)、小胴(小鼓)に小太鼓が加わった3楽器で演奏する芸能で、平成2年(1990年)11月に石垣市の無形民俗文化財として指定されています。平成22年(2010年)10月の登野城の結願祭での上演や、平成28年(2016年)11月には、能楽のルーツの地である奈良県の春日大社で執り行われた第60次式年造替の奉祝行事に招かれ奉納上演も行ってきました。若い世代の後継者へしっかりと登野城の伝統を繋げていきたいと思っています。

画像出典元:http://kyodoshi.com/article/6003

 

取材協力:比屋根祐

 

■『ちぃんだら節~久場山越地節』 新城浩健 https://youtu.be/7upLwQyHonk