【八重山の唄者】第5回 金城 弘美

金城 弘美(キンジョウ ヒロミ)  1968年生
石垣市登野城出身
石垣市新川在住
八重山古典音楽安室流協和会
金城弘美八重山古典音楽研究所
昭和60年(1986年)八重山古典音楽コンクール 最高賞受賞
平成12年(2000年)とぅばらーま大会最優秀賞受賞
平成27年(2015年)八重山古典音楽安室流協和会 師範免許所得

Q:出身地はどちらになりますか?
石垣市登野城の5町内になります。

Q:おじさんが登野城村の大濵用能流の名手:知念清吉さんですよね?幼少の頃はどうでしたか?
(知念)清吉おじさんのお父さん「知念松オジィ」がウチの爺ちゃんと兄弟で、その兄弟の知念七郎爺ちゃんの孫がギタリストで活躍する知念輝行、孝行兄弟。その松オジィが畑仕事の行き帰りに私の家に必ず寄ってウチの爺ちゃん祖母ちゃんとお茶をしていたのですが、雨が降ってなくてもクバ笠とミノを纏った姿でした。お茶を1杯飲んだ後、近所の子ども達を集めて童(わらべ)歌を唄ってくれていました。松オジィはとても優しく子ども好きで、八重山の遊びや謎々の童歌でいつも子どもたちを笑わせ楽しませてくれていました。私もいつでも松オジィが教えてくれていた童歌を口ずさんでいて、母が「あの時の弘美の童歌をラジカセで録音しておけば良かった」といつも残念がっていました。

その反面、ウチの爺ちゃんはとても厳しくて「三線は女が触るものじゃない」と。三線は家宝として、とても大事にしていて、表には飾らず、黒い布を巻いてタンスにしまっていました。毎晩、晩御飯のあと養命酒をキュッと一杯飲んで、三線を取り出し縁側に座り2曲ぐらい唄い弾いて、また布を巻いてタンスにしまう。お昼の3時になると黒いラジカセを出してきて『古見ぬ浦(クンノーラー)』というゆっくりしたテンポの曲をかけて金銀の扇をもって踊るんです。祖母ちゃんが傍でその謡(うた)を口ずさんでいる。これがウチの爺ちゃんの日課で、幼い私はいつもその様子を眺めていました。朝は親子ラジオから流れてくる古典民謡から一日が始まり、季節ごとの行事で親戚が集まると、清吉おじさんが唄三線を聴かせてくれるし、清吉おじさんの民謡のカセットテープも沢山あり、とにかく民謡が四六時中流れている環境で育ちましたね。

Q:民謡がいつも身近にある環境に居ながら、三線は触らせてもくれない。どうやって三線を弾くことになったんですか?
小学6年生の夏頃、仲良しの同級生が近所の三線教室(平田トシ研究所)に通い始めたことを知って興味津々で付いて行きました。教室に行ってみるとまず三線の先生が女性であることにビックリしたのですが「せっかく来たんだからあなたも弾いてみなさい」と三線を貸してもらい教室に参加させてくれました。「私の真似をして弾いてみなさい」と言われたので、向かい合った先生の通りに、左に三線を持ち弾いていたら「あなた、とても器用だね」とみんなに笑われたりして。とにかく楽しくて『三線を習いたい』と思い、ウチに帰って母に「三線習いたい」と言うと「お父さんに聞いてみなさい」と言われて・・。すると父は「馬鹿もん!女が三線やるか!」と怒られて。昔は“ピラツカー”といって、三線などの演奏は勿論、組踊やアンガマーなどの踊りも男性がやるもの、という考え方がありました。まさにその考えで猛反対されてしまって・・・。諦めきれず、内緒で三線教室にしばらく通っていました。月謝も払わずに(笑)。

とにかく唄三線が楽しくて。三線教室から帰っても練習がしたくてしょうがなくて。家には、用能流の工工四(譜面)も沢山あるし、民謡音源集も沢山あるし、タンスの中には爺ちゃんの三線もあるので。こっそり取り出して自己流で、工工四を読んで、民謡集を聴いて練習をしていました。でも、すぐに爺ちゃんに気付かれてしまい「借りる時は、ちゃんと借りると言いなさい!」と怒られましたが、結局三線を弾かせてくれました。しかし、父にだけは絶対気づかれないようにしていました。

しばらく月謝も払わず、教室に通い続けるので、教室の先生もさすがに気になり、市場に行く途中で見かけた母を呼び止め「弘美ちゃんがうちの教室に通っているんだけど・・」と。勿論、帰ってきた母に怒られて「月謝も払わず教室に習いに行っていたなんて!教室に通っているなら、そう言ってくれればいいのに」と。また、親戚の比屋根勇おじさんがウチの爺ちゃんに「弘美が三線習っているらしいけど、どうして他のところで習わせているの?自分のところで習わせればいいのに」と言ってきたそうです。「どうせなら親戚の大濵用能流の比屋根で三線習ったらどうか?」と爺ちゃんも勧めてきたのですが、芸事は最初の教えが大事だと思い断って、改めて平田トシ先生の三線教室に通いたいと気持ちを伝えました。爺ちゃんも理解してくれて、猛反対だった父を「弘美は三線の才能があるかもしれない。自分で工工四を読んで、曲もすぐ覚えて唄えるし。自分が月謝払ってもいいから、三線教室に通わせてやってくれないか」と説得してくれたのです。父は「一度始めたことは絶対に途中で辞めたりするな!」と言って、正式に三線教室に入門することになりました。結果として、地元登野城村の大濵用能流でなく、安室流を教わることになったのです。

あの頃は早く唄えるようになりたい一心で、寝ても覚めてもずっと練習していて、夜は寝るギリギリまで、朝起きてからすぐに三線を取って大きな声で家の応接間で唄っていました。成人式の時に島に戻った際に、近所のおばさんやおじさんに「弘美ちゃんが居なくなって、この辺りは静かになって淋しいさぁ。あの頃は毎晩、ベランダで涼みながら弘美ちゃんの唄声を聴くのが楽しみだったんだよ」言われて、とても恥ずかしかった(笑)。とにかく唄三線に夢中だったように思います。

Q:では晴れて平田トシさんの三線教室から本格的に八重山の古典音楽を学び始めたんですね。
小学6年生で入門して、中学1年生の時には、八重山毎日新聞社主催の民謡コンクールに出場して奨励賞を頂いて、中学2年生の時に、八重山古典音楽協会のコンクールの新人賞を受けることになって、平田トシ先生の息子の平田清先生に指導してもらうようになりました。当時は、清先生は沖縄本島在住だったので、トシ先生が私の謡(うた)をラジカセで録音して、電話口で音を流して、唄いまわしなどのチェックをしてもらったり、石垣島に出張で来るときは、稽古をつけて貰ったりして課題曲『月夜浜節』で新人賞を頂きました。中学3年生の時に、清先生が石垣島に戻ってきたので、そこからは平田清先生の三線教室に通い、その年のコンクールで優秀賞を頂いて、高校3年生の時に最高賞を頂きました。

私の最初の師匠であるトシ先生は、女性の唄者として有名で、母からも「トシさんの唄い方をいっぱい勉強しないさいよ」と言われていました。現在もお元気で、顔を見に行く度に必ず、私が小学6年生で教室に通いだした頃から奨励賞を受賞するまで稽古していた話を未だにしてくれます(笑)。

Q:初めてのステージの演奏はどうでしたか?
小学6年生の時に、通っていた登野城小学校が創立99周年でお祝いの行事があり、舞踊を習っている在校生が『赤またー節』を踊ることになりました。せっかくだからテープ演奏でなく、三線教室に通っている同級生三人で地謡をすることになりました。私は、習い始めのタイミングだったので、2週間ほどの間、毎日3人で集まって猛練習しました。勿論、トシ先生の指導を受けながら。暗譜もして、無事に唄三線を習い始めて1カ月ちょっとで地謡デビューできました。

中学校に入学すると、一緒に習っていた同級生の2人も三線教室を辞めてしまい、教室でも大人の中に中学生が私一人だけの状態になりました。その頃、母が登野城の天川御嶽の司(つかさ)をしていたので、荷物持ちなどのお手伝いで氏子として参加することも多く、その当時は、御嶽に泊まり込みして字会の人たちが集まり唄三線することもありましたが、いつも周りは大人だけでしたし、同級生の前で唄三線を披露することはほとんどなくて、中学時代は私が唄三線していること知っている同級生はあまりいなかったと思います。実際、同級生の間ではバンドブームで私のような唄三線をしている人がほとんどいませんでした。

そんな中、中学3年生の頃に、同級生女の子だけのバンドを結成することになり、「弘美は三線弾けるからエレキギターやって」と誘われて加入することになりました。同級生の島袋優(BEGINギター)にエレキギターの弾き方を教えて貰ったりしながら、メンバーの豆腐屋の倉庫でドラムやギターアンプを鳴らして朝から練習していました。今じゃ考えられませんけどね。八重山音楽祭という地元のバンドが集まるステージのオープニングアクトで出演し『悲しき街角』1曲だけを演奏。でも1番終わったところで、ステージの電源が落ちてしまい、復旧後は時間の関係でやり直し出演は無しという散々なバンドステージデビューになってしまいましたけど(笑)。このバンドは高校3年まで活動を続けることになります。当時、八重高の同級生でもBEGINをはじめ6、7バンドあり、市内で活動している学生バンドが沢山ありました。お祭りや学校の行事でも、予選会があって簡単には出演できないくらい学生バンドは盛んでした。

Q:八重山高校入学で郷土芸能部に入部するんですよね?
ひとつ先輩の白保出身の新良幸人先輩に強引に誘われました(笑)。幸人先輩とは、同じ安室流協和会の集まりなどで顔を合わせていましたが、中学3年生の時に、「八重高に来いよ。そして、郷土芸能(部)に入れよ」と声を掛けられて「馴れ馴れしい人だなぁ・・・」くらいに思っていました(笑)。その当時の八重高郷芸部では地謡を出来る部員が少なくなかったようで、私に目を付けていたようです。私は中学時代が唄三線ばかりだったので、スポーツ系の部活がしたくて、バスケ部に入部したいと思っていました。ところが仲の良い同級生に「弘美、一緒に郷芸部に入ろう」と強く誘われたうえに、幸人先輩から「弘美、今入部したら岩手の全国大会にいけるど!踊りは選抜で難しいかもしれないが、地謡なら人が少ないから必ずメンバーに入れるど。」と言われ、同級生の親友からも「弘美、岩手に行けるってよ!」と毎日説得が続いて。まんまと調子に乗せられて郷芸部に入部することになってしまいました(笑)。当時の八重高郷芸部は幸人先輩が在籍していたこともあり、部活動も活発でしたね。同級生の竹富島出身の野原健や上勢頭立人、2年生から白保出身の大島保克などが在籍していました。

幸人先輩が沖縄大学に進学したあとも、沖縄本島でのフォーラム等で八重山民謡を紹介する際に、「弘美、自分がアルバイト代で船賃払うから、とぅばらーま唄い来て欲しい」と誘われたりして、何度か本島まで唄いに行っていました。

高校卒業後は調律師になる為の音楽学校に行きたいという思いもあったのですが、授業料が高額だったので断念して、進学でなく就職することになりました。どうしようかと悩んでいるときに、担任の先生から「弘美は唄三線もできるから、バスガイドとかいいんじゃない?好きな唄が唄えるし」と提案され、「あ、いいかも!」と思い、親に相談すると東京など内地でなく沖縄本島までという条件だったので、那覇交通に就職しバスガイドをしていました。その時、新良幸人先輩が中心となり、那覇に出てきた八重高郷芸部の出身メンバーで『ゆらてぃく組』を結成し、沖縄本島だけでなく東京などで八重山の舞踊など郷土芸能の公演を行っていました。

Q:2000年のとぅばらーまチャンピオン。それまでの道のりを聞かせてください。
石垣市主催のとぅばらーま大会には、八重高郷芸部の顧問の高嶺方祐先生の勧めで1985年高校2年生の時に初出場して奨励賞を頂きました。高校卒業後、那覇でのバスガイド時代を経て、石垣島に戻り結婚、長男を出産した後、安室流協和会の宮良長定先生から電話で呼び出されて自宅に出向くと、平成元年(1989年)のとぅばらーまチャンピオンの黒島聡さんも呼び出されていて「弘美、今度のとぅばらーま大会に出場しなさいね。(黒島)聡に指導するようお願いしているから」と。そこから聡兄さんとのマンツーマンの練習がスタートして平成6年(1994年)大会に出場して3位入賞。翌年の平成7年(1995年)には優秀賞を頂きました。次男を出産後の平成9年(1997年)から3年連続で出場していました。子育てなどでバタバタと忙しい中、嫁いだ先の義父が私の唄三線の活動をいつも後押ししてくれていて、とぅばらーま大会が近づいてくると「今年は出ないの?」といつも声を掛けてくれていました。当時はフワッとした気持ちのまま出場していたところもあったのですが、とぅばらーまを通じて色んな方々から声を掛けて貰えました。「あなたは、あそこをこんな風に唄っているから、こういう風に唄った方がいいよ」「とぅばらーまの囃子の返しはそこじゃなく、ここで返してあげるんだよ」「唄い方だけでなく、立ち方も大事」など様々なアドバイスをくれる。そんな中、八重山古典民謡保存会の大底朝要先生からは「この先、唄を通して、たくさんの人があなたに色々言ってくることになるはず。そこで『はい。ありがとうございます』という気持ちで言葉を受けられるか。人の教えにはちゃんと耳を傾けなさい」というお言葉を頂き、とても有難いなぁと。実際、大濵用能流の比屋根廣先生から自宅に招かれ細かい部分の指導をいただいたり、安室流の先輩方をはじめ、流派を超えて沢山の学びを頂いたことに感謝しています。

6回目の平成11年(1999年)の大会後に、ある先輩から「あなたは勝負心が無い」と言われて。自分でもハッとして。よく思い返してみると、沢山の先輩たちから、チャンピオンになるようにと声を掛けられているのに、自分自身がチャンピオンになりたい!と思ったこと無く、なんとなく出場していた自分に気づきました。「チャンピオンになることは教えて頂いた方々への恩返しにもなる」とも言われ、ガーン!とゲンコツで頭を叩かれ、目が覚めるようでした。「来年は絶対、チャンピオンになる!」と心に決めて、必死に1年間練習をしました。家の中では大きな声で唄えないので、車の中で「母ちゃんうるさい!」と子供に言われながら大きな声で唄い続けて(笑)。そして平成12年(2000年)の大会でチャンピオンになることが出来ました。受賞のあと、大会の唄を聴いてみても、正直、納得のいく唄い方は出来ていませんでした。ですが、唄が上手く唄えるだけでなく、気持ちが聴いている方に伝わって賞を頂けたのかなと思いました。その2000年7月には沖縄サミットもあり、沖縄の文化である古典民謡にスポットライトが当たっていたこともあり、八重山のとぅばらーまチャンピオンとして、色んなところから、唄いに来て欲しいと声をかけて頂いて。沖縄本島から内地まで色々なところに出かけて唄を唄うことが出来ました。それも、子供もまだ手がかかる小さい頃なのに義父や家族の後押しして貰ったからですね。

ウチの父は、私の唄を見聴きした周りの人から「弘美、唄で頑張っているね、唄上手ね」と言われる度に、親として嬉しいはずなのに、実家に顔を出した私には「お前は謡(うた)を唄えるからといって自惚れるなよ!そんなだと許さんよ」といつも怒られていました。基本的は褒めない人なので(笑)。2000年のとぅばらーまチャンピオンになった時の歌詞は、この父の「自惚れるなよ」という教えが自分を作ってくれたなぁという想いで、「親ぬ一声肝に染まり/忘きどぅしらるん/思いどぅまさる(親の一言一言が心に残って、時を重ねる度に想いが募っていく)」の長田ミツコさんの歌詞を選びました。とぅばらーまチャンピオンになり、しばらくした頃にお酒を飲んでいる父がボソッと「よく唄をここまで続けてきたよ。いい謡(うた)を唄っている」と初めて褒めてくれました。嬉しかった反面「父ちゃん、年取ったなぁ・・」と(笑)。

とぅばらーま大会は、これまでのコンクールとは全然違うモノでした。とぅばらーまチャンピオンでなくても、とても素敵な謡(うた)を唄える人が大勢いる=(イコール)チャンピオンだから何なの?という考えもあった。でもその時に、先輩から「あなた、それはチャンピオンになってみないとわからないよ。」と言われました。『自分を極めていく』第一歩がとぅばらーまチャンピオンだったように思います。

Q:一番好きな八重山の謡(うた)は?
中学2年の時、新人賞の課題曲であった『月夜浜節』は今では課題曲としては除外されるほど、重い古典というか、とても曲尺も長く難しい曲で、初めて難しい曲に挑戦した曲ということもありずっと好きな曲です。爺ちゃんがラジオ体操のように踊っていた『古見ぬ浦』は幼少期を思い出す懐かしい好きな曲ですし。どの曲にもそれぞれ想いがあるので、どの曲とは言えませんが・・・でも今は一番、人と人を結んでいる『とぅばらーま』が好きです。『とぅばらーま』で自分が成長させてもらった。流派が違う仲間が集えて、『うた』を語り合うことが出来る『とぅばらーま』が一番好きですね。いつでも口ずさんでいる曲ですし、声の調子の確認も「つぅんだーさー」でしていますね(笑)。

自分にとって『うた』とは、服を着る、食事をするという生活と同じモノです。民謡じゃなくても、ポップであっても、自分に寄り添うモノであれば『うた』なのだと思います。なので、私のお弟子さん達にも内地出身者も多いですが、自分の『故郷のうた』自分が聴いてきた『うた』があっての『古典』なんだよ、と伝えています。比屋根廣先生からは「悲しい歌詞だから、悲しい気持ちで唄ってはいけない。悲しい気持ちで唄うと、人は聴けなくなる。『うた』を唄う時には、一番幸せなことを想像しながら唄いなさい。一番幸せな気持ちを『うた』で届けなさい」と。私は『うた』が好きです。

でも、私の『うた』の基本は八重山民謡だと思っています。だからこそ古典に関しては、人に指さされることのないようにしっかりと『崩さず』唄うという強い思いがあります。唄者として、これからも、八重山の謡(うた)を沢山の人に届けていきたいと思っています。

Q:最後に、金城弘美の八重山の謡(うた)とは?
私は小学6年生から八重山の古典民謡を唄ってきましたが、古典の先生や先輩方はもちろんですが、同級生のBEGINだったり、ひとつ先輩のパーシャクラブの新良幸人先輩、バガダバンドの伊良皆誠先輩ら色んなジャンルの唄者が傍にいたおかげで、民謡の舞台だけでなく、色々なステージで色々な観客の前で、さまざまの謡(うた)を唄うことができました。謡(うた)によって多くの方々に出逢い、人として、唄者として成長させてもらいました。もちろん、まだまだ成長させてもらいますけど(笑)。私にとって謡(うた)とは『感謝』なのかもしれません。

 

 

 

 

 

■動画『古見ぬ浦節』金城 弘美:https://youtu.be/3wnwuxTGrog

■動画『月夜浜節』金城 弘美:https://youtu.be/UZX9dzKoO1c