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【八重山の唄者】第6回 新井 勝己

新井 勝己(アライ カツミ)  1941年生
竹富町小浜出身
石垣市登野城在住
八重山古典音楽安室流協和会/琉球古典音楽野村流保存会
新井勝己研究所

  • 昭和54年(1979年) 八重山古典音楽協会コンクール最高賞受賞
  • 昭和63年(1988年) 沖縄タイムス社芸術選賞コンクール最高賞受賞
  • 平成8年(1996年) 八重山古典音楽安室流協和会師範免許 取得
  • 平成9年(1997年) 沖縄タイムス社芸術選賞コンクールグランプリ受賞
  • 平成9年(1997年) 琉球古典音楽野村流保存会師範免許 取得
  • 平成16年(2004年) 八重山古典音楽安室流協和会第八代会長
  • 平成18年(2006年) 沖縄タイムス社芸術選賞奨励賞受賞
  • 平成20年(2008年) 琉球古典音楽野村流保存会八重山支部第九代支部長
  • 平成21年(2009年) 沖縄県指定無形文化財「野村流伝統音楽保存会」伝承者認定
  • 平成27年(2015年) 八重山古典音楽協会会長
  • 平成27年(2015年) 沖縄県指定無形文化財「八重山古典民謡技能保持者」認定
  • 平成29年(2017年) 沖縄タイムス社芸術選賞大賞受賞

Q:出身地はどちらになりますか?
竹富町の小浜島です。

Q:幼少の頃のお話を聞かせてください
姉と二人の兄がいて4人姉弟の三男でした。小浜島で生まれてすぐに父が竹富町役場に勤めていたので石垣島の美崎御嶽の隣で過ごしていました。戦後、一旦小浜島に引き上げたので小浜小学校に入学卒業しました。小学2年の担任は実姉でした。中学校は小浜島を出て、石垣中学校に転校しました。当初は単身で出てきて石垣登野城の石垣昌二先生の裏座に間借りして、両親が石垣島に出てくるまでの間、自炊しながら中学校に通っていました。お昼の弁当も普段の食事も自分で市場に買い物にいって調理して食べていました。部活はソフトテニス部で、八重山高校時代は部長までやりました。

Q:小浜島は小さい頃から島の行事で笛を吹くそうですが
島の行事には島民全員参加しますし、私も小学校の頃は笛を吹いていました。お盆の時に獅子舞について子ども達だけで笛吹いて家々を回りました。横笛は子どもたちの担当なので、自然と吹けるようになりますね。小浜島の場合は、横笛も自分たちで竹から手作りして吹きますから。小学生の頃、三線は祖父の三線を遊びで触っている程度でした。小浜島を離れても中学生になると、小浜島郷友会としてアカマター、豊年祭、お盆などの行事に参加することになります。島では行事ごとに責任者がいて、その責任者の家に集まって、島の先輩たちから島の唄三線を教えてもらう。その時は流派など関係なく、島の謡(うた)として手ほどきを受ける。地域としての『繋がり』・・これは島の中では自然なことです。『小浜節』も、小浜島の唄い方と、安室流協和会での唄い方は違うのは当然のこと。違いを理解して唄うことが大事ですね。

Q:本格的に三線を弾くようになったのは?
八重山高校から琉球大学社会学科に入学し、昭和36年(1961年)頃、岡山稔さんなど八重山出身者5~6名でその当時識名の霊園で墓守していた大濵安伴先生(八重山古典民謡保存会)のところに通って本格的に唄三線を習い始めました。それで、琉大の八重山民謡同好会を結成して、発表会などの活動を行っていました。琉大卒業後の昭和42年(1967年)に識名朝永先生(琉球古典音楽野村流保存会)に師事し、石垣の家庭裁判所に勤務していた昭和45年(1970年)に宮良長定先生(八重山古典音楽安室流協和会)に師事しました。丁度、宮良長定先生が裁判所に出張して三線教室されていて、同僚の先輩たちから「島の人なのになんで八重山古典をやらんのか?」と言われてね。昭和53年(1978年)に八重山古典音楽安室流協和会の教師免許を頂きました。家庭裁判所調査官として、とにかく全国の裁判所に転勤することが多く、13年間石垣裁判所勤務し、大分県で3年間勤務の後、那覇に戻った昭和59年(1984年)には城間徳太郎先生(琉球古典音楽野村流保存会)に師事して、昭和61年(1986年)に琉球古典音楽野村流保存会の教師免許を頂きました。その後、コザ→石垣→那覇→佐賀県→那覇に戻り定年を迎えました。

Q:勝己先生の最初の三線は?
祖父の床の間に飾っていた三線を琉大入学時に譲り受けました。それを暫くはずっと愛用していました。現在は長男のところにありますが、彼は三線弾かないので三線箱に収まっていると思います。次男は琉球古典野村流の師範免許まで持っています。

Q:勝己先生の思い出のステージとは?
沖縄タイムス社の芸術選賞のステージでの独唱はやはり思い出深いですかね。また、沖縄国立劇場で数多く独唱や地謡などのステージもさせて貰いました。高嶺方祐先生(故)に呼び出されて、竹富島の種取祭に地謡や狂言で舞台に出演させられたりしたのも楽しい思い出ですね。

Q:勝己先生の研究所はまだ活動されていますか?
今年の1月が妻の三回忌で暫く、研究所はお休みしていますが、また3月から稽古を再開するつもりです。月曜日と木曜日は琉球古典の稽古、土曜日には八重山民謡を20時から1時間半の指導しています。ですが、新規の生徒は取っていません。師範級の方々が通ってくれています。

Q:勝己先生の好きな民謡は?
琉球古典では、『(本調子)仲風』ですかね。八重山古典では、島の情景が見える『鳩間節』や『与那国しょんかねー節』です。

Q:平成16年(2005年)7月に、安室流協和会工工四102曲の全曲を唄ってCD化されていますね。

家庭裁判所調査官を定年退職したあと、約1年掛けて、安室流協和会工工四の全曲102曲を歌詞も一切削らず全歌詞での独唱をレコーディングしまして『全曲・全歌詞集』のCDボックスを作りました。まだあの頃は体力もありましたから(笑)。山田書店などで店頭販売したり、知り合いに譲ったりして最初に作った分はすぐに無くなってしまい、急いで増産したほど反響もありました。現在は残念ながら全て売り切れてしまっていますけど。102曲の全歌詞を謡(うた)いCD収録してみて思い知らされたことがありました。それは八重山の節歌や古謡の原歌には、他にもかなりの歌詞が謡われていて、それら全ての節歌や古謡を謡いきることは唄者にとって至難で未解決の課題だということでした。

Q:最後に勝己先生にとって八重山の謡(うた)とは?
先人たちが遺してくれた八重山の節歌、ユンタ、ジラバやアヨウ、ユングトゥ等を含めると実に数えきれない程あります。数百年の歴史を経て今なお生き生きと謡い継がれる文化は他にあまり類がない。八重山の節唄や古謡には先人たちの生き様がありありと謡われています。現代の我々はその節歌や古謡を透して、古人(いにしえびと)たちが生きてきた往時の世相や暮らしぶり、その中で喜怒哀楽する人々の姿を垣間見ることができる。特に八重山の節歌や古謡の由来や背景には、260余年も続いた人頭税の過酷な歴史があり、その圧政下でさえ往時の人々は楽しみはもとより、苦しみや悲しみを節歌や古謡に託して乗り越え、生きてきた所がないでもない。時にはとてつもなく明るく、中には感性豊かな審美眼や比喩を駆使した素晴らしい旋律や曲想があり、正にそこに八重山の節歌や古謡の特徴をみる思いがする。この先人たちが遺してくれた島の貴重な文化を守り謡い継いで行くことが、今の我々に課された責務だと思います。

平成16年に自主製作した『安室流協和会工工四 全曲・全歌詞集』