【八重山の唄者】第7回 知念 清吉

知念 清吉(チネン セイキチ)1933年生

石垣市登野城出身
石垣市登野城在住

八重山古典音楽大濵用能流保存会/琉球古典音楽野村流保存会
登野城ユンタ保存会
知念清吉研究所

昭和43年(1968年)とぅばらーま大会 青年の部 チャンピオン
昭和58年(1983年)10月 第17回沖縄タイムズ芸術選賞新人部門 琉球古典音楽三味線優秀賞
平成29年(2017年)12月 2017年度沖縄県文化協会賞功労賞受賞

昭和28年(1953年)大濵用能流 大濱津呂に師事
昭和55年(1980年)2月 八重山古典音楽大濵用能流保存会 教師免許所得(師匠:大濱津呂)
知念清吉研究所(1980年~)
昭和59年(1984年)5月 琉球古典音楽野村流保存会 教師免許所得(師匠:宮里亀吉)
昭和63年(1988年)民謡集(カセットテープ)発売
平成7年(1995年)4月 八重山古典音楽大濵用能流保存会 師範免許所得
平成12年(2000年)12月 琉球古典音楽野村流保存会 師範免許所得(師匠:玉那覇有和)
平成18年(2006年)八重山古典音楽大濵用能流保存会 会長(~平成24年)
平成19年(2007年)12月 CD『うたがふう/知念清吉』(CD3枚組)発売(昭和63年カセットテープの復刻含む)
平成19年(2007年)12月12日 石垣市民会館中ホール『知念清吉リサイタルうたがふう』

 

知念清吉先生は、登野城村の唄の名手として知られ、大濵用能流の第一人者。長年、登野城字会の各種行事で地謡(じかた)を務め、“とぅぬすく風(登野城風)の唄者と言えば知念清吉”と言われる唄者である。八重山古典の元とされている古謡の第一人者であり、『登野城村古謡集(第一集)』の全曲を唄える唯一無二の存在です。現在87歳でも毎日、自ら軽トラックを運転して畑に出かけては大好きな野菜作りが大切な先生の日課になってるご様子。今回の取材に際し、清吉先生の姪っ子にあたる金城弘美(安室流協和会)と登野城字会の比屋根祐(大濵用能流)両氏に同席をお願いしました。勿論、清吉先生は島言葉(しまくとぅば)で話されるので、私なりに要約して記載している点はご了承頂きたい。

Q:出身地はどちらになりますか?

清吉先生:昭和8年(1933年)にとぅぬすく(登野城)生まれです。生家は八重山高校の南2本目の道にあり、知念本家のおじさんが那覇に引っ越しする際に土地含めて処分したので今は別の方の建物が建っていますね。

 

Q:幼少の頃のお話を聞かせてください

清吉先生:知念松(まつ)の長男として生まれて、下に妹が4名いました。親父は金城弘美の祖父忠四郎と兄弟で、米、キビ、牛など育てて農業していました。私も登野城小学校卒業後は父と一緒にずっと農業をしていました。ウチの親父はとにかく謡(うた)が大好きで、仕事しながら一日中唄っていました。三線はまったく弾かず、『節歌』ではなくユンタ・アヨウ・ジラバ・ユングトゥなどの古謡・童歌がとても上手でしたね。親父はとぅぬすく(登野城)村の種取祭や各種願いなどの行事でも良く唄っていましたが、大人の行事には幼い私が付いて行った記憶はほとんど無いです。でも、農作業中や家に居る時など、親父の唄はずっと聴いて育ちました。

金城弘美:清吉おじさんのお父さん『知念松じぃさん』は、いろんな所で子供たちに唄をうたってくれ畑の行き帰りに、私の家に寄り隣近所の子供を集めて童歌を教えてくれたり、子どもも声が聞こえると、保育園にも行き、手遊びなども教えていたようですよ。

清吉先生:あんじ(そう)。畑通り沿いの人達から良くこの話も聞かされるよ。

Q:本格的に三線を弾くようになったのは?

清吉先生:昭和28年、20歳の頃に大濵津呂先生に師事しました。それまでは三線を弾いたことはほとんど無く、でも八重山歌好きの親父のせいもあり、私自身も唄好きで、ずっと三線の稽古をしたいと思い、その当時の友達「小波本英行」「小波本直行」と一緒に3人で津呂先生のところに入門しました。当時、同級生では三線弾く人はほとんど居ませんでした。結局他の二人は途中で辞めてしまい、今でも一緒にユンタは唄っていますが、三線を習い続けたのは私だけでした。

元々、津呂先生は野村流の先生だったので、沖縄歌(琉球古典・野村流)を教わりながら、八重山唄(用能流)も指導してもらいました。津呂先生が亡くなった後、野村流の宮里亀吉先生の研究所に通い始めました。野村流の勉強とあわせて、八重山歌(用能流)の勉強も続けていました。

当時の稽古には、勿論、八重山歌(用能流)の工工四(譜面)はほとんど無く、津呂先生の唄を聴いて、三線の音を聴いて必死に覚えていました。その時の弾いていた三線は誰からか借りていましたね。

金城弘美:最近は工工四(譜面)の横に声楽が載っているから耳で覚えるのではなく、譜面通りの音を頼りにする生徒も少なからず居て、「先生の唄は、譜面と違いますけど、どっちが正しいのですか?」と聞かれることもしばしば。

八重山歌には、正しく表記出来ない音があるから、そこは先生の唄をしっかり聞いて、まずは真似てみるところから練習かなって思いますよね。昔は三線の持ち方ひとつでも「あんじあらぬ!(それは間違い)」と言って爪を飛ばす先生も居たって聞いたことあるけど、津呂先生も厳しかった?

清吉先生:津呂先生は怖い先生ではなかったよ。

比屋根祐:先生との稽古時は工工四(譜面)を見ない。見るのは先生のみ。一人で練習する時も、唄っている先生を思い起こしながらですね。工工四(譜面)は、あくまでも間違いがないか確認する程度に読むのが正しいのではと思います。清吉先生の時代は、稽古はもっと師匠と弟子の“真剣勝負”だったのでは。

Q:清吉先生の最初の三線は?

清吉先生:地謡(じかた)を始める30歳の頃にとぅぬすく(登野城)のアラスクヤー(新城屋)のおじさんが那覇から持って帰った何本かの三線の中から選んで買ったのが今でも愛用している細見の三線。細いがズッシリ重さがあり、しっかりとした上等な木が使われている。今でも現役で使用しています。

金城弘美:今は、握りが太目の三線が主流ですが、昔の三線は細見が主流。細見で小さいく、弾き辛い三線をいかに弾きこなせるか?弾き手の技量を見ることができたそうです。

Q:清吉先生の地謡デビューは覚えていますか?

清吉先生:当時は、ほとんどが『生年祝い』の地謡(じかた)だったかな。戦後の頃は、とにかく頻繁にお祝いしていて、字会での合同祝いだけでなく、個人の家々で親戚中が集まってお祝いをしていた。村中の家々で地謡をしたよ。あなた(筆者)の御爺さんのお祝いでも新城喜亨と一緒に地謡で唄ったよ。とぅぬすく(登野城)村とは限らず、他の村々からも声かけて貰ったので、とにかく色んなところで唄っていました。

金城弘美:生年祝い(せいねんいわい)は、生まれ年の73歳、85歳、88歳(米寿)のお祝い。昔は73歳でのお祝いが盛んに行われたはず。「清吉おじさんたちの地謡の謡(うた)が今までで一番素晴らしい」という話を、沢山の人からよく聞かされました。

比屋根祐:生年祝の地謡を任せられたら“一流”って言われていました。とにかく、祝いの席では、色んなリクエストが出てくるし、いきなり飛び入りがあったりする中、すぐに唄えないと場がシラケますから。「どれ、どのくらいこの地謡たちは唄えるかな?」とわざと意地悪なリクエストする人もいたそうです。どの謡(うた)もすぐに唄える地謡は重宝されたと思います。それを三線習い初めて10年くらいで声が掛かるのはよっぽどの実力が無いと難しいはずです。清吉先生はとぅぬすく(登野城)村の最高の唄者ですね。

清吉先生:あの当時、お祝いの席では、ほとんどが沖縄歌(琉球古典)ばっかりだったね。八重山歌が出てくるのはずっと後からだった。旧盆のアンガマーも僕らの地謡時代は、ほぼ全曲沖縄歌だった。

Q:清吉先生の好きな八重山歌は?

清吉先生:八重山歌はどの謡(うた)が好きとか特別とかは分からないなぁ(笑)

清吉先生への今回のインタビューはコロナ禍の中での実施の為、短時間で終わらせる必要もあり、広く深い話までお聞きすることができませんでした。とても控えめで多くを語る方ではないなので、話を聞き出すのも一苦労といったところでしたが。

平成19年(2007年)に3枚組CDリリース記念で12月12日に開催された『知念清吉リサイタルうたがふう』にふれておきたいと思います。長年、登野城村の天才唄者として言われてきましたが、自ら表に立たない人柄なので「知る人ぞ知る」的存在であったようです。そんな清吉先生が平成18年より大濵用能流保存会会長に就任。(これも渋々受けられたのではないか?と推測しますが)同保存会としては、いよいよ清吉先生が会長になったのだから、用能流の顔として広く知ってもらおうと、前会長の新城喜亨氏を中心とした保存会役員メンバーからCDリリースの話が持ち上がります。新録1枚と昭和63年(1988年)に発売したカセット集の音源を再収録した合計3枚組で、清吉先生の生れ年(73歳)にあわせての発売となりました。そして、リリース記念の初の単独での公演まで企画されました。なんと、チケット料金2,000円に発売する3枚組CDを付けて販売するという、どこまでも知念清吉の唄を堪能してもらいたい、という気持ちが溢れるリサイタルとなりました。

清吉先生の初単独公演に、チケットはあっという間に完売。リサイタルの司会として清吉先生の大ファンを公言する大田静雄氏が登壇し、清吉先生の魅力を存分に紹介しながらの進行となったようです。ですが大田氏もなんとか清吉先生から面白い話を聞き出そうと頑張って質問するものの、多くを語らない清吉先生。苦労する大田氏の姿に会場も和やかな雰囲気になったそうです。

2007年12月リサイタルのプログラム。CDケース収まる大きさに作成されている

演目構成も、清吉先生らしくユンタ・ジラバなどの古謡から始まり、八重山歌から沖縄歌まで幅広いレパートリーを披露しつつ、公演を締めた最後の曲は、『とぅばらーま』。その時にステージで囃子・笛として共演したのが、今回取材協力してくれた金城弘美、比屋根祐のお二人でした。会場中に広がった知念清吉の謡(うた)の世界を堪能できた来場者たちはどのような思いで会場を後にしたのか。

関係者から沖縄県や石垣市などの無形文化財八重山民謡保存者の認定推薦をずっと断り続けているという知念清吉先生。八重山のいち唄者として、謡(うた)と共に歩んできた人生。現在87歳にして未だに知念清吉研究所で若手に八重山歌を教え伝え続け、今年88歳の米寿を迎える。

20代前半の頃。文化会館ホールで『八重山育ち』歌唱(本人中央)【本人提供】

清吉先生を囲んで(左:金城弘美/右:比屋根祐)

 

取材協力:金城弘美/比屋根祐