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【八重山の唄者】第12回 横目 博二

横目 博二 (よこめ ひろじ)

生まれ年:1952年

出身地:旧大浜町伊原間

在住地:石垣市白保

所属:八重山古典民謡保存会

研究所名:横目博二・貞子研究所

八重山古典民謡保存会 会長(令和5年~)

平成5年(1993年) 八重山古典民謡保存会教師免許 取得

平成16年(2004年) 八重山古典民謡保存会師範免許 取得

 

平成4年(1992年)八重山古典民謡コンクール最優秀賞受賞

平成27年(2015年)沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡保持者 認定

平成19年(2007年)~ 八重山古典民謡コンクール審査員

平成21年~25年 石垣市主催とぅばらーま大会審査委員

 

 

Q1. 出身地はどちらになりますか?

伊原間です。祖父が大浜出身で、「横目」という苗字聞けばすぐに大浜を想像する方が多いと思います。祖父の時代に、伊原間に移住したと思います。祖父が伊原間の女性と結婚し父が生まれ、父が白保の女性と結婚し私が生まれました。

 

Q2. 幼少の頃のお話をお聞かせください。

私は11歳小学校5年生まで伊原間で暮らしていました。その頃伊原間は電気も無く、水道は小学校4年生の頃にやっと簡易水道が引かれたくらいで、生活用水は井戸水でした。伊原間にはいい沸き水が取れる井戸がありました。

兄男4人、女1人の5人兄妹の次男です。親は農業で畑に出かけ忙しくしていたので、下の弟や妹の面倒は上がみるのが当たり前でしたから、一番下の妹を背中にしょってオシッコかけられたりして。長男兄さんは先に大きくなり、力も付いてくると親の手伝いに連れ出されるので、必然的に私が子守担当になりました。本当に子守が嫌でね(笑)“一人っ子”に憧れていましたよ。子守も無いですから。それに比べて自分は弟妹が沢山いたので、なかなか遊びにもいけなくて、小さかったので、弟妹たちを疎ましく思ったりしてね。

小学校4年生の頃には、自分一人で馬を引いて、家畜のエサとなる草刈りに行っていました。刈り取った草を裸馬の背中に束ねて積んで帰ってくるのですが、まだ背も小さくて、馬にまたがる時は、石などを踏み台にして乗っていました。

家の裏には、豚舎があり、その横にはトイレがあり、その隣に牛馬舎があるという感じで、山羊の世話は私の担当でした。

6歳の頃の思い出ですが、小さい子どもの頃は、次男で”ヤマングー (やんちゃ坊主)”でしたから、親が畑仕事の時は目の届くところに置いておこうと、畑まで連れて行くわけです。畑の側には大きな岩があって、その岩にアコ木とかガジュマルの木がなっていて、そこが遊び場でした。ある時、2,3メートルもある石の上から頭から落ちてしまい、丁度髪の生え際あたりを切ってしまい血だらけになったことがあるんです。親父は血だらけの私をおぶって、車が走っている大きな道路まで走ってくれてね。当時の伊原間には傷を治療してくれる病院もなく、伊野田の診療所まで運ばれて、傷口を縫ってもらいました。今でもしっかり大きいカンパチ(傷あと)があります。ヤマングーの証拠ですね(笑)。

とにかく、学校が休みになると畑の手伝いをしなくちゃいけなくて。日曜日や夏休みが本当に嫌でした(笑)。パインの収穫、稲の収穫など、雑作業を色々手伝いしました。パイン畑は山の斜面にあり、小さい子どもには収穫作業は重労働でしたよ。お蔭で、身体が大きくなりませんでしたよ(笑)。その当時、米は自分たちの1年間の食糧として作っていましたから、収穫前の台風で全部ダメになったりしたこともあり、そんな年どうやって暮らしていたのか子供心に心配したりしていました。親は本当に大変だったと思います。

米が無い時の横目家の朝は「芋」と「ソーメン汁」と決まっていましたね。学校行く前で、豚のラードで出汁を取った熱々の汁がなかなか冷めなくて、急いでかけ込んで口の中をやけどして大変だった思い出ありますね。

小学校4年の時に、北部の中学校統合の話が出てきて、小学校5年の時伊原間から小学校が無くなり明石小学校に通うことになります。その頃、沖縄本島那覇に引っ越すことになったのです。理由は親父が心臓を患っていて、ずっと那覇の病院に通っていたんです。石垣島北部の伊原間から那覇の病院に通うのが本当に大変で、あの頃は地球の裏側に行くようなものでした。経済的にも大金が掛かってしまうし、医者からも「この身体で農業は無理」と宣告され、伊原間では農業しかなかったので、家屋敷を全て処分して家族全員で那覇へ移住することになりました。小学校5年生の3学期から、沖縄本島の識名小学校に転校しました。親父の体調も回復して、元気になってからは枠組みの大工仕事していました。伊原間から、那覇市内に引っ越して、何もかも違ってカルチャーショックが凄かったです。また移住することで家計も苦しくて、生活費を家に入れるために新聞配達のバイトをしましたね。あの頃は朝刊、夕刊があり、夕刊配達のため部活も出来ませんでした。識名小学校から石田中学校、豊見城高校を受験しました。高校受験前に下見に行った際、豊見城高校の側の国場川の匂いが。当時の国場川は、生活排水から豚の死骸までなんでもそのままたれ流していましたから悪臭が凄かった。この環境の中で高校生活を送るのかと、すごくショックだったことを覚えてます。僕らは豊見城高校の3期生で入学の頃、まだ校歌が無かったのです。校歌の歌詞を全国から公募することになり、全校朝礼で校歌が披露された際、冒頭の歌詞が「~国場の川の水清く」とあり、水清くとはとても言えない現状に全校生徒がひっくり返るくらいの大爆笑になってしまいました。採択された歌詞は国場側の現状を知らない内地の方が作った歌詞だったんです。さすがに先生たちもマズイと思ったのか、しばらくして歌詞が「~国場の川の果てしなく」に変更になっていました。僕ら3期生までしか知らないエピソードだと思いますよ(笑)。今の国場川はとてもキレイな川になってて、今なら「水清く」でいけたはずですけどね。

高校時代も家計を助ける為に、今のモノレール牧志駅の蔡温橋近くにあった蔡温橋駐車場で午後5時から夜中の11時頃までアルバイトを3年間しましたね

 

Q3.ずっと生活の為に働いた博二少年は、三線と触れ合うタイミングはあったのですか?

私の昔の記憶では、伊原間の自宅近くに大きなガジュマルの樹があって、それに上りしょっちゅう歌を歌っていました。母が本当に歌好きで、小さい私に美空ひばりをはじめとする歌謡曲を沢山歌って聞かせてくれました。私も母が歌ってくれた曲を直ぐ覚えて樹の上で歌っていたそうです。伊原間小学校に初めて音響機材が導入された時のこと、先生が「博二に歌ってもらいたいから呼んで来い。」と声がかかりました。ところが小さかった私は、初めて見るラッパのスピーカーが人を食べそうだと恐れ、逃げ回った記憶があります(笑)、歌は達者だったようです。

民謡に関しては、昼下がりのけだるい時間帯に民謡番組がはじまると、すぐスイッチ切っていました。正直あまり民謡が好きではなかったですね。高校時代は、フォークソングやカントリーミュージックを楽器弾きながら歌っていました。

実は、母は唄者の家系で、母の兄は安室流協和会の白保支部長するほどの腕前で、その影響で母も民謡が上手だったようです。また、父も母と結婚するまでは伊原間で地域行事の地謡を務めていたらしいです。私たち子供たちの前で唄三線するところは一度も見たことが無かったのです。よくよく話を後から聞いてみたら、母が唄者としての正統な系統が故に、母と結婚した後は、母の前では遠慮して民謡は一切歌わなかったそうです。そういうこともあり、三線に触れる機会はなかったです。

 

Q4.民謡に一切興味が無かった博二少年が民謡に向かうきっかけは何だったんですか?

那覇に移住して、元々民謡がうまかった母は白保出身の山里勇吉先生、仲宗根長一先生などから声が掛かり八重山民謡の手伝いをしていたのです。そんなある日、母に那覇市民会館で八重山芸能の公演があるから会場まで送ってほしいと頼まれ、どうせ公演が終わったら母を迎えに行かないといけないので、そのまま公演を観ることにしたのです。その公演の最後の大トリでステージに上がったのが大濵みね先生。歌われた曲が「しょんかね節」でした。歌い出しの前にスクリーンに与那国島の砂浜の映像と打ち寄せる波の音が流れ、そして歌い始めたみね先生の物凄い歌声に圧倒されました。「なんだこの歌は!自分はカントリーミュージックでバンジョーやギターなんかやっている場合じゃない!」と「自分の足元にこんな素晴らしい歌があるじゃないか!」と。ボー然と立ち尽くす自分がいました。あの日あの時大濵みね先生の歌に出会わなかったら今の音楽人生は無かったですね。母が私に声をかけ、たまたま時間があって、母をあの会場に送り、ふとステージを観てみようと思い、あの「しょんかね節」に出会わなかったら今こうしてインタビューを受けていることもなかったと思います。

「八重山の謡」を歌いたいと居てもたっても居られなくて、母に相談したりもしましたが、やはり、大濵みね先生の歌を習いたいという気持ちが強く、気がついたら大濵安伴先生の研究所へ入門していました(笑)

大学卒業後は色々な仕事をしていたのですが、一日中BGMを聞きながら仕事をすることができる職場で働いていた時のこと、ここぞとばかりに朝から晩まで八重山民謡ばかり流して、たくさんの民謡を聴き込むことが出来ました。でも、練習すればするほど、謡に描かれる八重山の風景や、発祥した背景を知りたくなるんですよね。11歳までしか八重山に住んでなかった自分は、本当の八重山を知らない中、「本物の八重山の謡」を歌えるのか?という疑問が湧いてきていました。そんな時、白保にタクシー会社を作るから、現地で会社をまとめる仕事をしてくれないかと声を掛けられまして、すぐに飛びつきました(笑)。

当初は3年間だけと期限を決め、その間に八重山民謡の発祥地をめぐって勉強し、自分の八重山の謡を本物にしよう!という思いでいたのですが、一緒にタクシー会社を立ち上げに那覇から来た今の私の妻:貞子と結婚して那覇に帰ることなく今に至ってます(笑)。

白保に移った1年間は、月に1回、那覇の安伴先生の教室に通っていましたが、仕事も忙しく難しくなり、石垣島在住の先生を紹介してもらい大底朝要先生の教室に通うことになったのですが、朝要先生もお忙しい方で、なかなか稽古タイミングが合わず、私自身も仕事も忙しくなり、どんどん足が遠のいてしまって、三線触らない時期が続きました。そうしたら、しばらくしまってあった三線をケースから出すと、太鼓の革が裂けていて。その三線は白保に移る際、安伴先生に頼み込んで譲って頂いた大事な三線でしたので、無残に裂けた三線を見て凄いショックでした。それだけ自分が怠けていたという事。こんなことではいけない、と改めて決意し、丁度その頃、隣の宮良村で研究所を開いた前花友宏先生の教室へ移籍することになりました。この世界、師匠を変えるってことは簡単な事ではないのですが、朝要先生も理解してくれて快く送り出してくれましたので本当に感謝しています。

私自身は、安伴先生の教室に通っている頃に、コンクールで「新人賞」「優秀賞」はすでに受賞していましたが、「最優秀賞」を取るのに13年掛かりました。ここにも一つの後悔があります。「最優秀賞」への挑戦を、前花研究所では私はいわば外様なので、友宏先生の生え抜きの門下生の方達に遠慮して、まだまだ先でいいや、と思い時間が過ぎていく中、なんと大濵安伴先生がご高齢でコンクールの審査委員を降りられることになってしまったんです。自分がぐずぐずしている間に安伴先生の審査で「最優秀賞」に挑戦することが出来なかったことを本当に悔やみました。親不孝をしてしまった思いでした。安伴先生に代わり、審査委員を務めたのが師匠の前花友宏先生でしたので、二度と親不孝をしてはならないと、友宏先生が審査する1回目のコンクールで「最優秀賞」を取ると決意して挑戦し、「最優秀賞」合格することが出来ました。

その後、師範教師免許の試験がコンクールとは別にあるのですが、その試験には、まだ安伴先生が審査員として残っていたので、今度こそ安伴先生の審査で教師免許を取ると決意し、教師試験に挑戦し、合格することが出来ました。安伴先生の審査で教師試験を受けることが出来て本当に嬉しかったですが、コンクールの「最優秀賞」で安伴先生の審査を受けることが出来なかった、そこだけは今でも悔やんでいます。

 

 

Q5. 安伴先生の指導はいかがでしたか?

安伴先生は本当に厳しい方でした。私が安伴先生の教室に通っている頃はまだ20代前半の独身者でしたが、働き盛り、子育てで忙しい年代の門下生も沢山いらっしゃいました。やはり色々忙しくして2、3カ月稽古に参加出来ない時がある訳です。でも安伴先生は容赦しませんでした。「お前は半年近くも稽古休んで、辞めたと思ってたら今ごろ何しに来た?」と方言で凄い叱責でした。本当に怖かったですけど、弟子に情熱を持って必死に教えてる分、それを必死に受け止めて欲しいという安伴先生の思いだったのだろうと思います。特に教師クラスの稽古は、ひとりひとりに歌わせてる時など、違った歌い方をするとご自分の三線をダン!と置いて「誰からこんな歌習ってきたか!」と、恐ろしい剣幕で叱ります。みね先生が稽古に加わり、少しでも自分の気に入らない歌を歌ったりするともっと凄かったです。身体をブルブル震わせながらの説教は常で、その後は稽古にならなかったですね(笑)。稽古の日は、まず稽古場に誰か来てないか外から部屋の中を覗いていました。誰も生徒が居ない時は、誰か他の生徒がやって来るまで外で時間を潰していました。安伴先生と1対1になる恐怖心が半端なかった。しかし、今考えると、あの安伴先生を独り占めして稽古が出来るというとんでもなく羨ましい話。本当に勿体ない話ですが、そんなこともわからない若輩だったということでしょうね。本当に厳しい稽古だったので辞めていく方も多かったです。あの頃から一緒に安伴先生の厳しい稽古に耐え抜いた同門を“戦友”と呼んでる位ですから(笑)。

この安伴先生の圧倒的な八重山の謡に対する思いを感じると、自分の八重山の謡はやはり偽物ではないか?という思いも出てくる訳で、自分もホンモノの八重山の謡が歌いたいと強く思うようになりましたね。

 

 

Q6. 一番最初の三線と、今一番メインで使われている三線について。

入門はしたものの自分の三線は無かったですね。それで母方の祖父の形見の三線を母の弟が所有していたらしく、その三線を母が交渉して、博二が使うならということでオジの元から私のところに来ることなり、それが最初の三線でした。入門したてで三線の値打ちも分からない私にとって、祖父の形見の三線は世の中で一番上等の三線と思って、ある日安伴先生に自慢げに見せたんですよ。そしたら「楽器としては何の値打ちもない、この三線は形見として大事にとっておきなさい」と言われましたよ。それでも上等三線を買うお金は無かったので、ずっとこの三線で稽古していました。

そしていよいよ新人賞に挑戦することになったとき、安伴先生が「お前のこの三線でコンクールを受けさせるわけにはいかない、これを持って行きなさい」と言って、稽古で使っていた自分の三線を私に持たせてくれたんです。そして無事新人賞に合格。翌年、優秀賞に挑戦した時も同じ三線を持たせてくれました。いつまで上等三線持たんでいるわけという話ですよね(笑)

そして白保に行くことが決まった時、意を決して安伴先生に「この三線を私に譲って欲しい」とお願いしたんです。すると「ならぬ」と即却下(笑)。この三線は稽古用として一番気に入っていると言って却下された。だけど自分も簡単には引きさがらんで、「先生のお気に入りの三線かも知れんけど、自分にとっても新人賞、優秀賞に合格した思い入れのある三線、しかもこの三線で挑戦させたのは安伴先生でしょう・・・」。こんなやり取りがしばらく続いたある日、「はあもう・・お前には負けた、○○万円でだったら譲る」と、ついに念願の三線を手に入れた。

現在、自分にとって大切な舞台は必ずこの三線と一緒に舞台に上がっています。

 

Q7.ご自身の研究所の立ち上げのお話も聞かせてください。

コンクールで最優秀に合格すると、それを耳にした方が、三線を教えてくれと数名言ってきました。最優秀賞には合格したものの、まだ教師免許を持っていない私は門下生をとって指導することは出来ないので、その時の師匠の前花友宏先生を紹介するようにしていましたが、ほとんどが続けきれず、すぐに辞めてしまうのです。紹介した人が次々辞めてしまうので友宏先生にも申し訳なくて。それで、友宏先生に相談し、研究所としてではなく、個人的なレッスンレベルで指導する許可を頂き、それがスタートになるのですが、なので教師免許を取った時にはすでに門下生が居た状況で、免許頂いた日が正式な研究所の開設日となりましたね。

 

Q8.白保の祭事等への参加はいつ頃からでしたか?

実は、白保村には独特の祭事の芸能文化があるので、四カ字出身の安伴先生の唄は白保には合わないと勝手に思い込んでいたのです。実際、白保に住んでいても私は宮良村の前花友宏先生のところに通ってましたし、一時期は友宏先生の片腕として宮良村の祭事にずっと参加していました。なので白保では私が三線していることは誰も知らない状態でした。そんなある日、八重山舞踊の「金嶺ヒデ先生」が私を訪ねて来て、いつも地謡をお願いしている方が病気で参加出来なくなってしまった。近々ある舞踊の発表の手伝い(地謡)をお願いできないか?と言われたのです。「実は私は安伴先生の門下で、自分の唄三線はヒデ先生の踊りには合わないと思います。」と返答しました。ですが、稽古用の音源を聴いてみたところ、なんとうちの流派の歌だったのです。それから白保の祭事でも地謡を務めるようになりました。あの時、金嶺ヒデ先生が訪ねて来なかったら、今でも白保で三線弾いてなかったかもしれません。そういう意味では金嶺ヒデ先生も私の大切な恩人です。

 

Q9.博二先生の思い出のステージはありますか?

これまで沢山のステージで唄ってきましたが、自分の中で上手く唄えたというステージは一つもないんです。失敗したステージの記憶しかないですよ。自分で満足したステージもまったく無いのです。本番に弱いのかもしれません(笑)。その中でも踊り1名、唄三線1名の1対1の舞台があったのですが、声がまったく出なくて大失敗してしまい、本当に申し訳ないことになってしまったことがありました。実は40台半ばから喉を痛め、現在もそうですが自分が思うような唄が歌えなくなっています。自分のステージ人生は声との闘いだったです。何度も耳鼻咽喉科の病院にも通いました。多くの門下生を抱え、その指導の為に一生懸命唄ってきたのですが、その副産物として声帯が炎症を起こし、喉を痛めてしまったのです。医者からは、一番良い治療は喉を休ませること、唄うのを控えなさいと言われました。門下生が指導を待ってるのに唄わない訳にはいかないですよ。喉は回復しないけど、指導は続けました。それで後悔はないです。私は、自分が満足いくステージをするよりも、自分の弟子たちが素晴らしいステージを、素晴らしい唄を歌ってもらう方が全然嬉しいですから。

実は、今年で70歳になるのですが、自分の歌唱を収録した音源作りを始めようと準備をしています。普通の一般大衆向けのCD作りではなくて、門下生の歌唱練習になる為の音源作りをしたいと考えてます。どう考えても私が門下生より先に逝くので、私が居なくても門下生たちがその音源を聴いて練習出来ればと(笑)。門下生に対する責任上からも、この音源を残すことが自分のやるべき最後の仕事だと思っています。私はレッスンプロとして、ステージで唄声を披露することよりも、稽古場で素晴らしい唄を門下生に伝えることが自分の役割だと思うし、稽古場での唄にこれからも拘っていきたいと思っています。

 

Q10. 博二先生の好きな八重山民謡は?

やっぱり、好きな曲は「鷲ぬ鳥節」ですね。正月の朝一番にこの曲を唄う時八重山人の冥利を感じます。また、この「鷲ぬ鳥節」は八重山民謡の入門曲なんです。数ある八重山歌の中でも、私が最もたくさん歌った曲です。安伴先生から一番最初に厳しく教えられた曲でもあります。またもう1曲厳しく教えられた曲が「赤またー節」です。習い始めの頃、安伴先生から旧盆のテレビ特別番組に出なさいと言われ、徹底的に教えられた曲なんです(笑)。ところが何回唄っても、どんなに稽古しても先生からOKが出ないのです。安伴先生が時間無い時は、みね先生から指導受けましたよ。こんな凄いお二人から指導を受けた曲です。一番の思い出の曲が「赤またー節」ですね。最終的に安伴先生からOKは貰えていないので永遠の課題曲でもありますね(笑)。

 

Q11.最後に博二先生にとって八重山の謡(うた)とは?

私にとって、八重山の謡は、「自分は八重山出身」だということを最も思い起こさせてくれるモノですね。唄っているときはこの素晴らしい伝統文化を残してきてくれた先人達に対する畏敬の念と、自分が八重山人(やいまぴとぅ)であることの誇りをいつも感じています。

 

取材協力:伊良皆誠

歌唱動画
「崎山節」https://youtu.be/dl-6JaqpNIQ
「夏花節〜最し節(さこだ浜)」https://youtu.be/xuD-5UT1ZOk

横目博二・貞子ブログ さこだ浜通信:https://piron.ti-da.net/