【八重山の唄者】第13回 伊良皆 髙吉
伊良皆 髙吉 (いらみな こうきち)
生まれ年:1937年
出身地:石垣市新川
在住地:東京都千代田区
所属:八重山古典音楽安室流保存会
研究所名:沖縄音楽三線教室
八重山古典音楽安室流第六世師範
琉球古典音楽安冨祖流教師免許
1959年 八重山古典音楽安室流師範大浜賢扶師・玉代勢長傳師に師事
1960年 文部省主催芸術祭出演(沖縄代表)
1977年 八重山古典音楽安室流保存会教師免許 取得
1979年 八重山古典音楽安室流保存会師範免許 取得
1984年 パリ親善交流団として参加
1990年 トゥバラーマ大会(石垣市主催)審査員
1995年 ニューヨークカーネギーホール出演
1999年 沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡技能保持者
2004年 ユネスコ(パリ)親善交流団長として参加
2005年 東京神田に於いて沖縄三線教室を開設
2016年 石垣市文化功労特別表彰受賞
2018年 安室流音楽師範第六世
2018年 宮良當壯賞受賞
Q1. 出身地はどちらになりますか?
石垣市新川の生まれです。姉が4名で男が私一人の5名姉弟の末っ子です。
Q2. 幼少の頃のお話を聞かせて貰えますか?
私の父は“古賀商会”という商社に勤めていて、尖閣諸島でかつお節工場や製糖工場の責任者などをしていました。とにかく忙しい人だったようです。子供たちが朝起きる前には出かけて行って、夜寝た後に帰って来るような生活でほとんど顔を合わせない状態でした。父との記憶は一緒にならんで小便をしたときに「着物濡らすなよ」と言われたこと。膝に抱かれながら三線を弾いている父の姿ぐらいかな。父は三線も踊りも出来る人で、その当時、小浜島や与那国島などで多くの人に三線や踊りを教えていたそうです。戦争が終わり台湾疎開から石垣島に戻った時には父はいなかった。父に憧れを頂いていた私は「親父みたいな三線弾きになりたい」と思い三線を弾き始めましたね。
Q3. 髙吉少年が三線を弾くようになったのは?
父の三線など無かったのですが、隣の上原さんのお父さんが三線を、お母さんが箏をやられていた。上原さんのご両親は仕事の関係で長いこと留守にしていることが多く、その留守の間、良く遊びに行っていて、床の間に飾られている三線を遊びで勝手に弄っていたのです。その当時の三線の弦は、今のようなナイロン弦ではないので、弾かない時は、ウマを外し、調弦を緩めて置いてありました。見よう見まねで三線を弾いて色々な曲を演奏している間に、調弦が出来るようになっていました。ある時に、調弦をしたままウマを外しただけで三線を戻していたので、留守の間に三線を誰かが調弦して弾いていると上原のお父さんに気付かれてしまったのです。上原のお父さんが「誰がこの三線を弾いているのか?」と近所に聞いて回っていることが伝わってきて、てっきり叱られると思って逃げ回っていたのですが、私が弾いていた事が伝わると「ちゃんと調弦して演奏してくれていることに驚いた。ありがとう」と言われ、そこからその三線を弾くことを公認してもらい、ずっと弾かせてもらっていました。
また近所には戦争で右手を失って、水牛の角で作られた大きな爪を腕にはめてそれでどんな曲も演奏してしまう野村流の大家も近くに住んでいて、其処ら中から朝から晩まで民謡が流れてくる環境でした。私が民謡をなんでも弾けるようになったのはそういう人たちに囲まれていたからだと思います。
そんな中、家の一番座に間借りしていたフィリピンから戻ってきた上原さんという方がなんでも修理出来る方で、ウミンチュたちが調子悪くなったエンジンのモーターを担いで持ち込んで来ては、庭先で修理するので朝からバリバリとした大きなエンジン音で凄くて何度も起こされました。ウミンチュたちの出入りが凄くて、ウミンチュの兄さんたちと自然と付き合うようになりました。船屋に一緒に泊まり込むこともしょっちゅうでした。ウミンチュたちは一仕事終えたあと、また何かのお祝い事など酒の席ではすぐに“カチャーシー”を踊りだすのです。居合わせた私に「髙吉、一緒にカチャーシー叩け」と言われ、カチャーシーのリズムを見よう見まねで落ちていた板切れなどを叩いたりしてね。そのうちに三線でも弾くようなっていました。私の最初の三線で弾いたのは“カチャーシー”かもしれません。
当時、桃林寺の長男が同級生で、お寺に出入りしていた時に、師匠である、大浜賢扶先生と玉代勢長傳先生と出会うことになります。二人の先生が演奏で出かける時に一緒に付いて行くようになり、演奏の席で出される天ぷらや料理を食べられたりしたので嬉しかった。そんな中、太鼓を借りにいったり、その太鼓を叩かせられたりとお手伝いをするようになりました。気が付くとずっと二人の先生に付いて回っていました。
Q5.地元の地域行事などに参加することはありましたか?
八重山高校に入学後には、唄三線で地謡を務めるようになっていました。新川の青年会にも入り、豊年祭、お盆のアンガマー、ハーリー(海神祭)などの余興などで踊りの地謡をして新川公民館の建て替えの資金集めなどもしていました。でも、あの当時、色々なレコードが入ってきて、民謡よりも“社交ダンス”などが凄く流行っていましたね。青年会の活動にも人が集まらなくて大変な時期でしたよ。
Q6.地元を離れたあとは?
八重山高校卒業して、代理教員を4年ほど勤めたあと、東京のラーメン工場に勤めながら法政大学の夜間に通っていましたが学費を稼ぐ為に沖縄芸能保存会という児玉清子さんの舞踊道場で琉球古典の地謡をしたりして学費を稼いだりしていました。その当時は学生運動の全盛期でほとんど大学には行かず、生きるためにお金を稼ぐ生活をしていました。逆に、この時に給料の良い会社に勤めていたら、ここまで三線を弾いてなかったかもしれません(笑)。唄三線は、“呼吸”や“水の飲む”と一緒で私には生きるために当たり前に必要なモノでした。
大学卒業後は、明星食品でそのまま勤め、昭和45年(1970年)には沖縄工場を作る為会社を設立し沖縄本島へ移住し、昭和54年(1979年)からは石垣島に戻り沖縄県県議会議員などを経て平成16年(2004年)11月に東京に出て来て、2005年にここの沖縄音楽三線教室を開設しました。
Q7.今年で設立17年になる三線教室について
現在、ここ神田教室以外に、高円寺、本八幡など、23の教室があり、教師も(琉球古典・八重山古典とあわせて)、三線の部は27名、笛の部は7名、太鼓の部は6名で、現在約200名の門下生が活動しており、これまでの門下生総数は約1,200名になります。コロナ禍でしばらく休止することもありましたが、現在ではオンラインでの稽古なども行っております。もちろん、ほとんどの生徒の方は東京や本土出身者ですが沖縄への想いは私が想像していたよりも遥かに大きく、大変感激しております。沖縄の人々の豊かな心と美しい自然が育んだ唄の数々を、これから皆様と一緒に勉強して行けることを大変嬉しく思っています。
Q8. 先生の好きな曲は?
申し訳ないが、八重山の民謡に優劣は付けると謡たちに申し訳ないので、どの曲とは選べないですね。強いて挙がるなら登野城のユンタで「今日が日(きゆがぴぃ)」が一番好きです。昔の農民は1カ月の内、20日間は公的な仕事をして、10日間だけは自分の為に仕事が出来る日があった。「今日の日は、自分の為、家族の為に1日を自由に使うことが出来る。さぁ、今日は何をすればいいだろうか?」という謡で、この情景を思い浮かべると涙が出てきます。人間は何かを貰うよりも、自由にやりなさい、という“自由”であることが一番嬉しかったのだろうと思う。
Q9.最後に伊良皆先生にとっての八重山の謡とは?
沖縄の離島の歴史を遡ると、どの島も台風や干ばつや風土病に苦しんできました。そんな環境で島人達は神仏・自然に祈りを捧げる為にアヨウ(阿諛(アユ)=頼みごとをする時の心)を歌い、やがてそれがユンタ・ジラバ(労働歌)となりました。あらゆる苦難を、歌を歌い島人が心を一つにして乗り越えてきた歴史です。それは島に人間が住み着いた時から始まっており、数百年数千年に及ぶものと考えられます。ですから八重山の歌は同じ歌であっても、島が違うと歌詞が違っていたり、旋律が違っていて、各々の島の生活と歴史を背負って伝わっており、必ずしも同じではありません。異なっていることが重要と言っても過言ではありません。しかし、どの歌も特徴を認め合い歌う中で、心を合わせ、ハーモニーを生み出しているのです。その“心”こそが八重山の先人達が遺して伝えてくれた島の伝統文化であり遺産である八重山の謡を後輩へより正しく深く伝承していかなければならないと思っています。
沖縄音楽三線教室https://okion34kyousitsu.grupo.jp/
歌唱動画「まんのをま節~真栄節」https://youtu.be/yg6yVVkXvSo
歌唱動画「蔵ぬぱな節」https://youtu.be/jPOFlRa2OOM