,

【八重山の唄者】第18回 玉代勢 武

玉代勢 武(たまよせ たけし)

 

生まれ年:1944年

出身地:石垣市石垣

在住地:浦添市仲間

所属:八重山古典音楽安室流保存会/ 琉球古典音楽野村流保存会

沖縄県指定無形文化財(八重山民謡)保持者

 

昭和40年(1965年)6月  琉球大学郷土芸能部 入部

昭和42年(1967年)  沖縄タイムス社芸能選賞コンクール新人賞

         11月 琉大八重山民謡同好会 初代部長

昭和43年(1968年)9月 安室流保存会 玉代勢長傳に師事

平成5年 (1994年)4月 野村流保存会 玉城政文に師事

平成10年(1998年)4月 安室流保存会那覇支部 伊良皆髙吉に師事

平成11年(1999年)6月 沖縄タイムス社芸術選賞コンクール優秀賞

         10月 八重山古典音楽コンクール 新人賞

平成12年(2000年)4月 野村流保存会 教師免許取得

         10月 八重山古典音楽コンクール 優秀賞

平成14年(2002年)1月 安室流保存会 教師免許取得

         10月 八重山古典音楽コンクール 最高賞

平成16年(2004年)1月 安室流保存会沖縄支部 開設/玉代勢武三線教室 開設

         6月 沖縄タイムス芸術選賞コンクール 最高賞

平成20年(2008年)1月 安室流保存会 師範免許取得

平成21年(2009年)5月 野村流保存会 師範免許取得

平成27年(2015年)6月 野村流保存会 伝承者認定

令和4年 (2022年)11月 県指定無形文化財(八重山民謡)保持者 認定

 

Q1:出身地はどちらになりますか?
石垣市字石垣ですね。5名兄弟の長男で、すぐ下の次男、そして妹が3名です。

親父は沖縄県無形文化財技能保持者で安室流保存会第五世師範の玉代勢長傳です。

お袋も琴を教えていました。

 

Q2:幼少の頃のお話を聞きたいのですが、石垣字の豊年祭とかに参加したりしてましたか?

小学生5・6年の頃に、旗頭の横での太鼓隊に参加したことはありますね。楽しかった思い出があります。豊年祭近くになると、夜になって太鼓隊の先生の家にみんな集まって練習したりしてね。豊年祭の時だけは、夜に外出しても大人たちから怒られなかったですね。

 

Q3:両親共に民謡の指導者だったということは身近に民謡に接していたんですね?

自分が小さい頃はまだ研究所は開いてなくて、親父が自宅で三線を生徒に教えて始めたのは高校生の頃でした。自宅で練習して、色んな所に三線持って出かけていきました。登野城村や新川村や色んなところの生年祝いや冠婚葬祭にとにかく演奏に呼ばれてましたね。

幼少の記憶としては、親父とお袋が食事の時に、「今日はどこどこであれを唄った、あの人とこれを唄った」などと色々会話しているのを聞いていたので、民謡の曲のタイトルなどはほぼ覚えて知っていました。

しかし、私は石垣島に居る頃は一切三線を触らず中学、高校とバスケ部でした。

私たちの時代には三線弾きは「三線ぴきゃーはピラツカムン」(三線弾く者は怠け者)と呼ばれる程でしたから。

とにかく自分自身はバスケットボール部の活動で忙しくしていましたね。でも、家に帰ればもちろん、両親が民謡を演奏していたので民謡の音は身体に沁み込んでいましたし、実際、音楽は大変好きでした。小学4年生の時に、小学校で放送部が出来て担当に選ばれました。朝早くに登校して校内放送でアナウンスを担当したり、その放送の中で、担当の先生が「あの歌を歌いなさい」と言われアカペラで色々歌わされたりしました。親戚の子供たちから、武兄さん放送で歌ってたけど、歌声が女性みたかったよ、なんて言われましたね。民謡ではなくて唱歌の方ですけど。校内放送で色んな曲を流したり出来るので唱歌からクラッシックまで色んな曲を良く聴いていました。そして自宅でも有線ラジオが付いてからは、そこから流れる音楽はずっと聴いてました。

 

Q4:そんな武先生が、三線を弾き始めたのは?

琉球大学に入学して、寮に入りました。直ぐクラブ紹介があり、郷土芸能部があったので6月には入部しました。部室に伺うと三線が何本もあったので、それを触らせてもらってもらいましたが、すぐに担当の先生に自分の三線を買いなさいと言われたので、当時5ドルくらいの三線を手に入れて弾いていました。三線を始めたことに親父は大変喜んでくれました。琉大の芸能クラブでは琉球古典音楽ばかりで八重山民謡は一切演奏していませんでした。夏休みに自宅に帰った時に、親父から八重山民謡の工工四を貰って練習を始めました。でもやはり幼少の頃に体に沁みついているので、2年生になる頃にはだいぶ多くの曲を弾けるようになってました。夏休みで石垣に戻る度に、親父に稽古をつけてもらうようになりました。

大学3年の頃、八重山出身者が集まって、八重山民謡同好会(のちに八重山芸能研究会)を立ち上げることになって、私が初代部長になりました。それから定期的に発表会などを行い、活動を広げていきました。2019年の創設50周年で解散してその活動を終えましたがやはり少々寂しいですね。琉大卒業後は県庁職員となり、石垣島には戻らず、浦添市で生活することになります。親父との稽古は大学の夏休みなど石垣島に帰郷するタイミングだけではありましたが、自分の中では、最初の師匠はやはり親父になりますね。社会人になってからは、伊良皆髙吉先生が那覇支部を立ち上げた頃にはそちらにも通っていましたが、浦添の自宅から通うのが大変でしたね。また、私のおじさんにあたる崎枝孫奉さんが教室を立ち上げたりしていたので、そちらに通わせて貰ったりしていました。孫奉さんの家とは近かったので通いやすかったですから。その後は順調にコンクールでも新人賞、優秀賞、最高賞を頂き、平成14年には八重山古典音楽安室流保存会沖縄支部を開設すると共に自分の研究所「玉代勢武三線教室」も開設して今日まで色々なステージを経験しながら唄三線の道を歩んできました。

 

Q5:武先生にとって思い出深い八重山民謡はどのような曲がありますか?

やはり親父が良く唄っていた「いやり節」ですね。親父は戦争で島を出て、終戦は本土で迎えていたんです。そこで怪我をして傷痍軍人でした。この「いやり節」を唄って遠く離れた八重山を懐かしく思っていたと思います。大事な発表会の重要なところでこの曲を唄っていたと記憶があります。自分の中では親父を思い出す謡になっています。個人的に好きなのは二揚の曲で「仲筋ぬぬべーま節」「小浜節」「月ぬまぴぃろぅま節」あたりですかね。

 

Q6:武先生にとっての八重山の謡(うた)とは?

生まれ故郷の大事なモノですが、私の場合は、やはり、八重山の地域の風景とか、親父やお袋を思い出す大切なモノかもしれません。