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【八重山の唄者】第19回 東金嶺 等

東金嶺 等(ひがしかなみね ひとし)

 

生まれ年:1964年

出身地:竹富町波照間

在住地:石垣市大浜

所属:八重山古典音楽安室流保存会

 

令和4年7月 沖縄県指定無形文化財「八重山古典民謡」保持者認定

平成10年1月 八重山古典音楽安室流保存会 教師免許

平成19年9月 とぅばらーま大会 歌唱の部 最優秀賞

平成24年3月 宮古民謡保存協会 教師免許

平成31年1月 八重山古典音楽安室流保存会 師範免許

 

Q1:出身地はどちらになりますか?

竹富町の波照間島出身です。中学まで波照間島で過ごし、高校進学で石垣島の方に出ました。

 

Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください。

5人兄妹の真ん中の次男。上に長女、長男の二人、下に次女と三男です。

祖父は台湾台北出身で西表島の炭鉱で管理職として働きに来ていたそうで、その後に波照間島のリン鉱山で鉱夫、まかないを管理する仕事で来島して祖母と知り合ったそうです。祖父の名前は「呉根在」でしたが、祖母の「東金嶺」姓を名乗ったようです。祖父の家系は元々中国大陸の方の出身で、400年程の歴史ある一族で「陳」姓だったそうですが、なぜ祖父が「呉」姓を名乗っていたのかはよく分からないですが。今でも台北の親戚のとは正月に連絡を取り合う間柄です。実は、娘が琉球大学国際言語学科時代の卒業論文で自分のルーツを探るということで家族と一緒に台北の親戚を訪ねて家系図や色々なことを教えてもらい、今でも交流が続いています。

親父は農業でメインはサトウキビですが、その当時は牛や山羊も飼っていました。小さい頃は畑の手伝いばかりしていました。ウチの両親は若くして結婚したので財産もほとんど無く、小さな畑をあっちこっちから借りて細々とした農業でした。

自分の幼少の頃、波照間島には保育園や幼稚園が無く、家以外の所に通ったのは小学校入学からでした。なので、小学校入学まではずっと家族と一緒に過ごすので、家か畑かでしたね。長女の姉ちゃんは家仕事、兄貴と私で畑仕事。親父から指示を受けた兄貴と一緒に山羊や牛の餌やりや世話をしていました。

小学校入学すると、学校のあるときは畑仕事から解放されるので楽しかったですね。でも小学時代はクラブ活動とか参加する余裕はなかったので、授業が終わると畑仕事の手伝いに出てました。中学生になるとバスケットボール部に入部して部活動をスタートしましたが、波照間島はご存じの通り少人数なので団体スポーツは野球、バスケくらいでした。そんな中、陸上競技大会が近づくと各種目にみんなで参加していました。小学5年生からは陸上の高跳びをやっていて、小学6年の時、農林高校のグラウンドでの八重山郡民小中陸上競技大会で、登野城小代表の黒島聡と高跳び種目で優勝を争っていました(笑)。また中学時代は佐久川勲先生という熱血教師がいまして、中学時代は駅伝競技で波照間中が3連覇していました。駅伝時期の冬場はバスケの部活が終わると、牛や山羊の世話をしなくてはいけなかったのですが、その佐久川先生が「30分間」駅伝練習を入れるんです。それを終えて帰る頃には冬場なので陽が落ちて真っ暗になってその中で家畜の世話するのが大変でした。遅く帰宅する私のことを佐久川先生が家に来て親に謝りに来てくれたりしました。

とにかく、部活と畑仕事の日々でした。中学生になると体力も付き、色々な力仕事も出来るようになると手間賃が貰えるようになりました。でも、自分の手元に入らず全部親のところにいきましたけど(笑)。離島では大会出るのもお金が掛かりましたから派遣費などに充ててましたね。

 

Q3:八重高進学で石垣島生活がスタート?

長女の姉さんは高校卒業してすぐに就職して、長男兄さんの学費や生活の面倒を見てくれていました。そして私が高校入学で波照間から出てくると、長男兄さんも高校卒業して就職して、二人で私の学費や生活の面倒を見てくれて、当時は3人で市内の借家で生活していました。高校時代は陸上部で高跳びの選手として県大会では上位に入る成績で、高校2年生の時には九州大会の代表にもなりましたね。高校時代は石垣島も土地改良が盛んで、土日を使っての日雇いのアルバイトなど同級生でしていました。でも基本的には授業と部活三昧の日々でした。

 

Q4:そんな等少年が唄三線に興味を持つきっかけは?

唄三線に興味を持ったのは波照間島の幼少の頃ですが、実は、両親も親戚も唄三線をしている人は誰も居なかったので親の影響とかではなかったんです。波照間島の旧盆のムシャーマで朝は「道サネー」の村を回るパレードの後、午後から舞台での奉納芸能があるんです。その舞台での芸能を見るのがとても楽しみでした。石造りの小さな舞台にパラシュートを木々に張りめぐらせて日陰を作ってお客様を案内してました。水色の舞台幕に小さな覗き穴があり、舞台裏に地謡の唄三線のおじーたちが演奏していました。踊り手ではなく、そのステージ裏の地謡のおじーたちがとにかくカッコ良くてね、ずっと見ていました。

実は、小学2・3年生の頃、小学校の三線弾ける先生が「三線クラブ」を立ち上げたことがあったんです。でも、それは家に三線がある児童たちだけだったんです。家に三線がなかった私は参加することができなくて、三線弾ける先輩たちが羨ましかったです。地謡のおじーたちのように人を踊らせる唄三線をいつか弾いてみたいと強い憧れの気持ちがありました。

あと、親父が無類のラジオ好きで、家では一日中ラジオが流れていて、「歌の人工衛星」と言う番組をよく聴いていました。なので民謡や音楽は良く耳にする環境ではありました。

 

Q5:実際に三線を弾き始めたのは?

18歳の頃。八重高卒業後に進学したかったのですが、家庭の事情もあり、あきらめ就職しました。航空貨物の会社に就職したのですが、その最初の給料で先ず三線を買いました。4万くらいの三線を買って、工工四を見ながら独学で先ずは聞き覚えのある『鷲ぬ鳥節』から練習を始めました。研究所などに入門はせずに我流で弾き始めました。丁度その頃、今の石垣市民会館大ホールが完成して、宮良康生さんの公演があり、チケットを買って会場に足を運びました。その公演で宮良康生さんの唄声に感動しました。公演終わりに会場で販売されていたカセットテープと本を買って、その宮良康生さんの唄で練習をしました。その時は流派とか詳しい事はまったく知りませんでした。

実際に研究所に入門したのは22歳の頃。当時付き合っていた嫁さんの兄貴が泊栄文先生の研究所に通っていていたんですが、私が我流で唄三線をやっていることを聞きつけ、わざわざアパートまで迎えてくれて栄文先生へ「面倒見て欲しい!」と研究所まで連れて行ってくれました。そこから私の「安室流保存会」の始まりです。入門したのが6、7月頃で、その9月にコンクールがあったのですが、先生がすぐに「コンクール受けないさい」と言われて猛特訓して新人賞を受けて合格することが出来ました。入門して短期間で合格出来たのは、独学で宮良康生さんの唄を聴き込んでいたからだと思います。新人賞の課題曲は『鷲ぬ鳥節』と『古見ぬ浦節』でしたね。翌年には優勝賞を取って、そのあと結婚しましたしたが、子供の世話もしないでずっと唄三線ばかりに没頭するもんだから、奥さんにしたたか叱られていました。でも今では女房が1番の理解者で応援団長ですね。

当時はカセットレコーダーを稽古に持っていて、先生の唄三線を録音しては、そのカセットテープを車でかけたり、カセットウォークマンで仕事中もヘッドフォンして聴いていたりととにかく唄三線に没頭していました。優秀賞の後は、2年間空けないと最高賞を受験することが出来なかったのですが、その最高賞は2回落ちました。絶対合格するつもりで練習していたので、落ちた時はショックで、唄三線辞めようかと思ったくらい思い詰めていましたが、3回目の挑戦で合格することが出来ました。

優秀賞に合格したあとから、師匠から結婚式やお祝いの地謡に参加するように勧められましたが、あの時代に相当鍛えられたと思います。色々なリクエストが来るので琉球の早弾きの曲など知らない曲は必死に音源や資料を探して練習しました。また、その頃からとぅばらーま大会にも挑戦し始めました。師匠にとぅばらーまを教えて欲しいと言うと、『とぅばらーま』は自分では教えられないし、『とぅばらーま』は自身で研究するものだ、と言われました。それから毎年挑戦して、15年目にやっとチャンピオンになれました。

与那国島の『どぅなんスンカニ』チャンピオンの挑戦は私の師匠与那国島出身、また嫁さんも与那国出身で私自身が与那国郷友会に所属していました。大川公民館で、石垣島の代表を決める大会で優勝して、与那国スカンニ大会に出場して、本大会で優勝することが出来ました。

それからは、どぅなんスンカニを唄う機会も増えて、与那国島の唄者と思われることもありましたね(笑)。

 

Q6:宮古民謡保存会の教師免許もお持ちですね?

ウチの師匠が宮古民謡保存会の八重山支部長をしている関係で、宮古民謡も練習して教師免許試験を宮古島まで受けにいきました。そして、宮古民謡保存会が石垣で公演会を開催することになり、宮古からの唄者が大勢いる中、『伊良部とうがに』を独唱させてもらい、とても光栄でした。石垣島、与那国島、宮古島の各島唄の大会でチャンピオンになることが出来ました。

 

Q7:そんな各島々の唄を唄われてる等さんの中で特別な曲はありますか?

実は、唄ってて自然と涙が出てきてしまった曲があるんです。『大浦越路節』ですが、この唄は西表島で役人が自分の担当地域を見回りする際、道なき道を行き来する中、風雨で役人が怪我などしないように村人たちが懸命に道案内するする様子を唄っているんですが、村人たちが本当に苦労していたんだなぁと。サビの歌い上げのところなどグッときてしまいましたね。

 

Q8:昨年は県指定無形文化財「八重山古典民謡」保持者に認定されました。

本当に光栄な事です。先生方から応募書類を準備して欲しいと依頼を受けて、書類を提出して1年ぐらい間が空いていたので、最初認定されたことの連絡を受けるまで、すっかり応募したことすら忘れていました(笑)。なのでビックリして恐縮しました。こんな若輩な私が諸先生方と一緒に頂いていいのかなぁと戸惑いもありました。
新型コロナで自分の教室もずっと休んでいましたが、コロナ禍も落ち着きつつあるので、今年の4月からは三線教室も再開するよう準備を進めています。

 

Q9:最後に等さんにとっての八重山の謡(うた)とは?
今でこそ、自分の生きがいとなっている唄三線ですが、八重山の謡(うた)は唄えば唄うほど凄いと感じるのは“作られたモノ”ではなくて“自然に生まれたモノ”なんだということですね。昔の先人達の生活の中で自然と表現される歌詞、直接的な表現ではなく、比喩的に事柄を伝える言葉の世界観がとても感銘を受けますね。自分たちはたぶん、先人達と比べれば生活が満たされているんでしょうね。大変な生活を送っていたはずであろう先人たちは苦しさを苦しいとは表現せずに、気持ちを唄う八重山の謡(うた)にはいつも感動させてもらっています。唄三線を学ぶ道に入って本当に良かったと思いますし、先人たちの想いの詰まった八重山の謡(うた)をしっかり伝えていきたいと思います。

どぅなんスンカニ大会に石垣代表で出場しチャンピオンに【本人提供】

歌唱動画:「大浦越路節」https://youtu.be/4ZAgSRZQKpo

歌唱動画:「とぅばらーま」https://youtu.be/lw2pI3rBp_I