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【八重山の唄者】第16回 竹田 祐規

竹田祐規(たけだ ゆうき)

 

生まれ年:1989年

出身地:那覇市首里石嶺

在住地:那覇市松島

所属:八重山古典音楽安室流保存会/琉球古典音楽安冨祖流絃聲会

 

 

平成13年 琉球古典音楽安冨祖流絃聲会師範/八重山古典音楽安室流保存会教師:宮良圭蔵に師事

平成14年 第25回八重山古典音楽コンクール三線新人賞受賞

平成15年 第26回八重山古典音楽コンクール三線優秀賞受賞

平成16年 第39回琉球古典芸能コンクール歌三線安冨祖流新人部門受賞

平成18年 第29回八重山古典音楽コンクール三線最高賞受賞

平成19年 第42回琉球古典芸能コンクール歌三線安冨祖流優秀部門受賞

平成21年 琉球古典音楽安冨祖流絃聲会教師免許取得

平成23年 沖縄県指定無形文化財「沖縄伝統音楽安冨祖流」伝承者認定

平成25年 八重山古典音楽安室流保存会教師免許取得

平成25年 第45回琉球古典芸能コンクール歌三線安冨祖流最高部門受賞

平成26年 安冨祖流・安室流竹田祐規研究所を開設

令和3年  琉球古典音楽安冨祖流絃聲会竹田祐規第1回独演会「清音響聲」

     国立劇場おきなわ小劇場において開催

令和4年 琉球舞踊保存会 国指定重要無形文化財「琉球舞踊(地謡)」伝承者認定

令和5年 八重山古典音楽安室流保存会師範免許取得

 

Q1:出身地はどちらになりますか?

那覇市首里になります。育ちは那覇市与儀になりますね。

妹が一人の二人兄妹です。

 

Q2:祐規少年が琉球民謡に接したのは?

特に家族が芸能をしていたこともないのですが、強いて挙げれば、母の妹、叔母が琉舞:玉城流の師匠でしたが、そのおばさんの琉舞を観に行った記憶もないのです。いたって普通の家庭でした。幼少の頃の一番古い記憶で言うとテレビで流れる「郷土劇場」とか「エイサー」など沖縄の芸能を紹介する番組を好きで観ていた事ですね。母の出身地でもある豊見城のお盆には地元の青年会が盛んで、エイサーが一軒一軒廻って来て、それを楽しみに観ていた記憶もあります。

小学2、3年生頃になってくると、沖縄の芸能の中でも、「踊り」ではなく「曲」が好きなんだぁと気づくようになりまして、聴いた曲を真似て唄おうとし始めました。特に三線の音色に反応していたように思います。

小学4年生の頃になると、両親に「三線が欲しい」と話していました。その時両親はまったく相手にしてくれませんでした。どうせ、一時期的で、すぐに別のことに興味が行くだろうと思っていたようです。

 

Q3:実際に三線を手に取るきっかけは?

小学5年生の頃の同じクラスの友達が三線をやっていることが分かって、その子に「三線に興味あるから道場に連れてってくれ」と頼みまして。道場を見学した後、親に報告したところ、両親も「あ、本気なんだ」と思ったそうです。

友達が通う研究所に八重山出身の宮良圭蔵先生がいらっしゃいました。琉球音楽安冨祖流と八重山の安室流保存会にも所属されていまして、二刀流の先生でした。八重山古典音楽に関して言えば、その頃、伊良皆髙吉先生が那覇で血気盛んに活動されていた頃で、圭蔵先生はその頃のお弟子さんだったのです。言ってみれば私は、伊良皆髙吉先生の孫弟子にあたるわけです。その流れで私自身も琉球古典音楽と八重山古典音楽を同時に学ぶことになりました。圭蔵先生も、琉球古典音楽はこれ、八重山民謡はこれと分けずに、「かぎやで風節」唄ったあとはすぐに「鷲ぬ鳥節」を唄う、みたいな稽古をしていましたので、知らず知らずに八重山の唄も唄えるようになっていました。

Q4:その頃の研究所では同じ年頃の子はいらっしゃいましたか?

通い始めの頃は同級生が3名で、私も他の友達に声掛けをして徐々に増えて5名くらいは在籍していました。全て男の子でしたが、その中でこの歳まで続けているのは私だけになってしまいました。当時は週3回で19時から21時までの2時間の稽古でした。小学生には遅い時間帯でしたが、道場が近所だったので、自転車で通っていました。

 

Q5:小学生が民謡の方言の歌詞を聴きとる、ましてやあまり聴いたことのない八重山民謡などは苦労しませんでしたか?

そうですね。周りの友達は歌詞には苦戦しているようでしたが、私自身はそんなに抵抗感もなく自然と出来ていたように思います。実は、私は小学校4年生の頃から毎朝早起きをして早朝6時から、ROKラジオ沖縄の「暁でーびる」という民謡番組を聴いてから小学校に行っていました。聴いているだけでなく、耳コピで歌詞を自分で書き起こして、唄うところまでやっていましたね。「この曲面白い」と思い、歌詞を書き起こしてどんな唄か調べたりしていました。実際に習うようになって、自分が思っていた歌詞とまったく違っている!なんてことは多々ありましたけど。(笑)なので、研究所に入門するまでにかなりの曲を聴いて唄えるようになり、民謡への思いを強くしていったところありますね。稽古を始めた時も全て初めて聴く感じではなく、あ、あの曲だ、という感じでした。うちなー口に関しても私自身、ほとんど抵抗感はありませんでした。実は親父もうちなー口をしゃべっている人だったので、聴く分にはすんなり耳に入って来る感じでした。

 

Q6:研究所へ通い、ある程度唄三線が出来るようになると学校などで披露することはありましたか?

小学校6年生の頃は、クラスなどでの行事の際は、唄三線を披露していました。なんと、先生方が運動会の組体操にTHE BOOMの「島唄」を組み合わせる企画をしてくれて、同級生メンバーで地謡の練習を必死に行って披露した思い出ありますね。その当時は、まだ小学校で三線を披露したりするのはとても珍しい事だったように思います。私たちが卒業した後、小学校でも三線の学習の時間が取り入れられたりした印象がありますね。なので、組体操に三線音楽を組み合わせて披露することはとても画期的な試みだったように思います。

運動会の組体操でTHE BOOM島唄を唄う【本人提供】

Q7:中学校に進級しても唄三線続けられている中で、学校で民謡クラブに入部などは?

残念ながら私の地元の方は、八重山の小中学校のように、民謡クラブなどはそんなに盛んではないかもしれません。学校のクラブ活動のように組織的な活動はありませんでした。ですが、芸能をやっている同級生が沢山居ました。私たち世代がたまたまだったと思いますが、八重山舞踊を習っている人、琉球舞踊を習っている人、民謡(三線、笛、太鼓)を習ってる人が居まして、そのメンバーで近くの老人ホームに慰問公演をしにいったり、敬老会の御祝いで披露したり、と忙しくしていました。中学時代はクラブには入らず、生徒会活動などを中心に、自分たちとしては三線持ってあちらこちらに「遊び感覚」で活動してましたね。(笑)

中学時代、有志で演奏会を精力的に行う【本人提供】

Q8:こういう活動をすると、研究所とは違い流派関係ない付き合いになりますよね?

おっしゃる通りです。勿論、流派の型を大事にすることは当たり前で、私は今でもそうですが、唄三線の演奏の活動の中では、流派ではなく、同じ音楽家として接することを心掛けています。その中学校での個性あふれる面々との演奏活動が原点にあるように思います。

「他人に合わせる」ということが苦ではなく、「他人に合わせる力があるかどうか?」だと思います。勿論、流派の個性を守る事は否定しませんし、大事なことです。最近は流派の垣根を超えた活動で沖縄民謡が広がっているように感じます。八重山民謡はちょっとだけその動きから遅れを感じますが、徐々に八重山も新しい動きをしているなと感じています。私は現在、那覇市の文化協会で八重山芸能部会の役員をしております。そこには音楽団体でも、安室流保存会、安室流協和会、八重山民謡伝統協会と那覇八重山古典民謡保存会の4団体があります。沢山の団体がありまして、公演を行う際には、バラバラではなくて各団体一緒に作っていきましょうとここ数年活動しています。とても良い雰囲気で、舞踊に関しても7団体ありますが、みんな個々での開催でなく、何か一つは一緒にやりましょうと那覇では意識づけ含めて活動しています。

Q9:竹田先生のように沖縄本島で生活されている方が八重山民謡を研究されて、八重山古典をどのように感じ取れていますか?

琉球古典音楽はやはり宮廷音楽で、人様に観て頂く芸能です。煌びやかで優雅に、いかに美しく踊るか、奏でるか。八重山古典音楽はやはり「人頭税」の苦しい思いが詰まっています。そして「土臭さ」が滲みでます。八重山芸能を演じる時は、その島の人たちの思いとか苦しみをいかに表現するかが大事になってくると思います。個人的には如何に「土の香り」をさせるか、ですかね。その香りがどこか懐かしいような、それを意識しております。

 

Q10:コンクール以外で八重山を訪れる機会などはありますか?

私は大学が沖縄国際大学の総合文化学部に進学して琉球芸能・琉球文学について学んでいました。竹富島出身の狩俣恵一先生がいらっしゃったので竹富島の種取祭の研究でよく足を運びました。もちろん、安室流保存会の石垣の岡山稔先生や喜舎場英勝先生のところにもおじゃまして色々八重山文化の事を教えて頂いたりしました。

 

Q11:現在のご自身の研究所の活動は?

週2回で月曜日が八重山古典、木曜日が琉球古典と分けて稽古しております。八重山古典の門下生は、最高賞1名、優秀賞4名、一般1名の5名で、琉球古典の門下生は新人賞4名の合計9名です。八重山古典の5名は、県外者が2名、沖縄本島の方が3名ですね。最高賞を取得した生徒は、実は琉球古典の方からのスタートでしたが、八重山古典もちょっとやってみますかと始めたらドハマリして、最高賞まで取ってしまいましたね。(笑)

 

Q12:稽古について

音で追っていく習慣は幼少の頃からもそうですが、琉球古典の安冨祖流は特に工工四を見ない、見せないという流派で、師匠と1対1の口伝で、真似して覚えなさいを徹底しているので。勿論、早弾きなどをやりたくても譜面が無いのです。そうなると音源を聴いて取るしか出来ないですよね。これは、今になって得したと思うのです。現在の創作モノとかになると色々な舞踊の地謡をすることになった時に、やっぱり過去の音源から拾っていかないといけないことが多いのです。また、八重山の唄でもあまり工工四を見過ぎず、音でしっかり取って唄わないと“柔らかさ”“むちみ”が出てこない。やはり工工四は点を線で追ってしまうの唄になってしまうのでカクカクした硬い唄になりがちになる。これは八重山の先生方にもよく言われています。ある先生には「やはり安冨祖流だけに、唄が柔らかいね」とお褒めを頂くこともありますが、逆に「綺麗すぎる」ということもあって、“雑さ”“粗さ”が必要な時もあるんですよね。八重山独特の「土臭さ」が出るように声の出し方、節まわしが大事でもあるので。八重山の島々の風を受けて、文化を受けた唄を唄わないと近づけないなと感じています。

そういう意味で「八重山の謡(うた)」を唄えるか?と言えばまだまだ全然唄えていないと思います。県外の方でも、八重山に移住されていく方もいますが、唄がやっぱり変わるのでビックリすることがあります。やはり、その土地で唄うことが大事だなぁと感じています。

Q13:八重山の謡(うた)で好きな曲は?

どれも好きなので困ってしまいますが、やっぱり与那国「しょんかね節」ですかね。西表「でんさ節」も教訓歌としてシンプルで大好きですね。言ったら切りないですね(笑)八重山の曲で“厳かな”曲も好きですね。西表上原の「上原ぬ島節」は神々しいく厳かな曲で、私が新人賞を受ける頃、伊良皆髙吉先生がまだ久茂地の事務所がある頃で、そこに行くと先輩方が優秀賞の課題曲で一生懸命唄っているあの音色が印象に残っていますね。

 

Q14:今年に入って師範免許も取得されてんですね。

はい、今年1月に師範免許を授与されました。教師免許を取ってから9年近く経ちました。急がなくてもいいだろうと思っていたのですが、先生方に是非受けなさいと言ってもらえたので受けさせて頂きました。またひとつ荷が重くなったかも(笑)。やはり、弟子を持って教えるからにはちゃんとしたカタチで唄を唄わせるように育てていきたいですし、先程言ったように、自分ではまだホンモノの八重山の謡は唄えていないと思いますが、それでもカタチとしてはしっかりとした謡を伝えていきたいと思います。また、那覇では八重山の芸能は人気があります。特に八重山の謡は定評がありますし、八重山の素敵な文化を微力ながら那覇で広げていければと思っております。

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