,

【八重山の唄者】第10回 平良 広治

平良 広治 (たいら こうじ)

生まれ年:1962年
出身地:石垣市字石垣
在住地:東京都杉並区
所属:八重山古典音楽安室流保存会
研究所名:平良広治研究所

沖縄県指定無形文化財「八重山古典民謡」保持者

平成9年(1997年)1月 八重山古典音楽安室流保存会 教師免許取得
平成9年(1997年)10月 八重山古典音楽協会コンクール 最高賞受賞
平成14年(2002年)9月 とぅばらーま大会 優秀賞受賞
平成15年(2003年)1月 八重山古典音楽安室流保存会 師範免許取得
平成15年(2003年)9月 とぅばらーま大会 優秀賞
平成29年(2017年)12月 八重山古典音楽協会創立40周年記念式典感謝状
令和4年(2022年)7月 県指定無形文化財「八重山古典民謡」保持者認定。

 

Q1. 出身地は?

生まれ育ちは、石垣市字石垣です。9名の兄弟姉妹の5番目、次男として生まれました。一番上の兄さんとはひと回り12歳離れていて、一番下の弟とは7歳違いです。これだけの子がいるために、両親は並々ならぬ苦労をして育ててくれたと感謝しています。
父の話では、祖父母は桃林寺西通りから北側に行った坂を上がる手前、西側の新川に住んでいたそうです。その坂道を上がった4号線の北側の土地が売りに出されていたので、その土地は高台にありますから、万が一津波がきても難を逃れると思い、新川の土地を売って、高台にある土地を購入し、移り住んだようです。

 

Q2. 幼少の頃はいかがでしたか?

幼少のころは、音楽と体育を得意としていました。勉強より走り回って遊ぶことが好きで、隣近所の仲間と、いつも日が暮れるまで遊んでいました(笑)。
小学2年のころ、大型台風が到来し、気象台の風速計が壊れてしまうほどの暴風で木造の家もぐらつき揺れて、危険を感じた父は病弱の母を背負い、家族全員、近くの石垣小学校の鉄筋コンクリート校舎に避難しました。真夜中にドシーンと大きな轟音があり、翌日、外を見ると、木造校舎が倒壊していて、自宅も倒壊しているのではと不安になりながら帰宅すると、それほど被害もなく、安心しました(笑)。
私が小学5年まで、米軍統治下で通貨はドルでした。駄菓子や塩せんべいは1セントでした。沖縄が日本に復帰して、ドルから円に切り替わったときは、1ドルが360円でした。
中学1年のとき、7月30日の夜12時に、車が右から左側通行に変わり、そのときに石垣島に初めて信号機が設置されました。現在の730交差点の信号機です。

 

Q3. 幼少の頃の地域行事への参加などの様子を教えてください。

地域行事といえば、豊年祭オンプール、お盆、ソーロンのアンガマ踊りを、幼いころから観ていました。小学6年のころには、豊年祭の太鼓隊に参加しました。
高校3年のとき、登野城に住んでいる従姉が、登野城青年会アンガマ隊に参加するとのことで、私も三線地謡するようにと誘われました。そこで初めて地謡を経験し、その翌年からは地元の石垣青年会で、毎年、アンガマ地謡をし、35歳まで務めました。
石垣字会の行事や婦人会、老人会などの発表での地謡も数多く務め、字会や町内会の役員も務めました。地域のために少しでも貢献できて、よかったと思っています。

 

Q4. 本格的に三線を弾くようになったのは?

私が中学、高校生のころは、フォークソングが流行っていて、ギターを弾く友人が多かったです。歌は好きでしたが、弦が多いギターを弾くのは苦手で(笑)。家に父の三線がありましたので、三弦なら弾けるかと思い、工工四の勘所図を見て弾き手を覚え、レコードを聴きながら、「鷲ぬ鳥節」を自己流ながらも弾いて唄えるようになりました。その後、「古見之浦節」「月夜浜節」のレコードを聴き、とても良い唄だと思い、夜遅くまで練習して覚えました。
懸命に練習しているのを見た父は、私が高校3年のときに、「ちゃんと三線の師匠から教わりなさい」と言って、私を連れて訪ねて行ったところが、大御所であります師匠の玉代勢長傳先生宅でした。そのときはまだ、長傳先生が偉大な先生だとも何も知らず、「なんでも好きな唄を唄って」と言われましたので、いまでこそ思い返すと恥ずかしくなってしまいますが、堂々と「月夜浜節」を唄いました。独学での努力を長傳先生は認めてくださり、その日から長傳先生に師事し、昭和55年(1980年)5月に入門し本格的に教わることになりました。
その当時、長傳先生のレッスンに通っていたのは、私以外は、私から見るとおじさん、おばさんばかりでした。歳がぐんと離れていたこともあり、長傳先生にも、先輩たちにも、とてもかわいがってもらいました。
入門してすぐ、コンクールの新人賞を受けなさいと長傳先生に言われたので、コンクールまで3か月課題曲を必死に練習し、無事に新人賞を頂けて、翌年には優秀賞も頂けました。
20代中頃には、仕事仲間とのお付き合いが増え、レッスンに行ったり行かなかったりして、徐々にレッスンから遠のきました。そのころに師範の岡山稔先生、喜舎場英勝先生から、レッスンに通うように叱咤激励され、再び長傳師匠のレッスンに通うようになりました。
その後、岡山先生や喜舎場先生のご厚意で、舞台などでの地謡をさせていただきご指導を仰ぎながら、いろいろと学ぶことがありました。私にとっての師匠は、長傳先生、岡山先生、喜舎場先生だと思っています。今日まで私が民謡を継続することができているのも、3人の先生がいらっしゃる恵まれた環境でのご指導の賜物と感謝しております。

 

Q5. 最初の三線と、今一番メインで使用している三線について教えてください。

初めて手にした三線は父の古いものでしたが、長傳師匠に入門してすぐに受験したコンクールで新人賞に合格したときに、父の知り合いで、安室流保存会発足時の会員でもある方から、父が三線を安く譲っていただき、それを父からもらいました。音色がよく響く三線でしたので、アンガマ地謡で長年、この三線を弾きました。
大舞台で地謡を務めるようになってから、クロキの三線を2丁購入し、舞台用として弾いていました。
特に三線の型などにはこだわりはないです。自分の声質にあった音色、やわらかい音色の三線であれば良いと思っています。

 

Q6 研究所について教えてください。

東京で研究所を開設したのが2007年、今年で15周年です。開設当時は、沖縄居酒屋などでライブをしていたので、ライブを見て教わりにきた人や、八重山が好きで何度も旅行しているうちに民謡を聴いて習いたくなった人などが生徒には多かったです。
これまで介護施設でボランティア慰問公演をしたり、研究所の発表会も3回開催できました。生徒たちには、好きこそ物の上手なれ、継続は力なり、と常々言い聞かせています。
八重山民謡は節回しに高低差があり、字余り字足らずな歌詞もあって、節当てが難しいので、なるべく工工四に載っている歌詞全句を唄ってレッスンするように心がけています。
また、歌詞の意味も解説しながら指導に当たっています。生徒たちは八重山方言を知らないので、歌詞の意味を説明することによってはじめて、唄の背景や歴史を理解できます。そうして、ますます民謡を好きになり、継続し、精進につながると考えています。

歌唱収録時に研究所門下生の皆さんと

Q7. 広治先生の思い出のステージを教えてください。

たくさん思い出はありますが、平成12年1月、私が37歳のときに、文化協会設立5周年公演で、他流派も含め、東京の日本青年会館大ホールで開催された「沖縄・芸能選」公演に出演したことです。当流派から、師匠の玉代勢長傳先生、岡山稔先生、喜舎場英勝先生とともに出演させていただいたことに感激しました。
平成13年11月、39歳のときに、その年の「とぅばらーま大会」チャンピオンになった知念ノリ子さんが、「全国民謡サミット・民謡の祭典」安来大会に招待され、ゲスト出演として私も出演しました。当日は雪が降り、島根県安来市の市民体育館の会場で、私たちは薄着のムイチャーを着ていて、控室から舞台に向かうのに建物の外を回って、前座の演奏が終わるまでの間、寒さで震えながら待ちましたが、いざ舞台に出ると満員の会場に寒さを忘れ、持ち時間20分で6曲ほど唄い終えたことは、忘れることはない思い出です。
特にうれしく思いながらも緊張した舞台は、平成13年8月11日に、師匠の玉代勢長傳先生の85歳生年祝賀会で、地謡をするようにと任されたことです。市長をはじめ、大勢の来賓、各流派の大家の先生方の前で地謡を務めたのです。唄のミスは絶対に許されないという思いから、祝宴が終わるまで緊張し通しでした。先生の貴重な節目の生年祝の地謡に、私を推していただいたことを、いまも思い出しては肝に命じ、先生から教わった唄を継承普及させることが、私の師匠への恩返しと思い、指導育成を頑張っていきたい

 

Q8. 先生の好きな曲は?

八重山民謡の全てが好きですが、なかでも「仲良田節」「前ぬ渡節」「あがろうざ節」「牛なーまユンタ」が好きですね。長傳先生の著作の「とぅがにすーざー節」も好きな曲です。
「仲良田節」のメロディーや唄を聴くと、歌詞にあるように、稲粟が実り、さわやかな海風で、稲粟の穂がゆらゆらと揺れて育っていく様子が目に浮かびます。とても癒されるメロディーです。
「前ぬ渡節」は、実際には荒海だけれど、静けさの海のなかを役人のお供をしたい、そんな状況が心に伝わってきます。この曲のメロディーにも癒されます。
「とぅがにすーざー節」の歌詞は、夫婦としての思い、そして産まれた我が子に対する親心が胸に熱く迫ってきます。とても感動的な唄です。

 

Q9. 最後に先生にとって八重山の謡(うた)とは?

謡は私にとって、人生の処方箋、「命薬(ぬちぐすい)」と思っています。心の癒しですね。
三線が普及する前は、ユンタやジラバなど、労働をしながらアカペラで唄ったのが八重山の謡となりました。当時の人々は人頭税が課せられ、過酷な生活のなかで、唄うことによって自分を励まし、労苦を乗り越えようとしてきました。
私もこれまでの人生で、うれしいとき、悲しいとき、辛いとき、仕事に疲れたときなど、いろいろありましたが、民謡を唄えば、心が無になり、疲れや嫌なことを忘れて元気を取り戻すことができました。まさに「命薬」です。それが八重山民謡の魅力であり、先人たちが遺した最高の文化遺産だと思います。八重山民謡を唄えることに喜びを感じながら、生涯唄い続けていきたいと思います。

歌唱収録日に60歳の誕生日を門下生に祝ってもらう

歌唱動画
「とぅがにすーざー節」https://youtu.be/Y4jfrH4t0FE
「あがろうざ節」https://youtu.be/dWMkGTQRMz4
「前ぬ渡節」https://youtu.be/Wz8T5M-TJnY
「仲良田節」https://youtu.be/srM8FYCaEtw
「冨崎野ぬ牛なーまユンタ・トースィー」https://youtu.be/SS5ehG_uOaI