【八重山の唄者】第25回 岡山 創
岡山 創(おかやま はじめ)
生まれ年:1976年4月1日生
出身地:石垣市字石垣
所属:八重山古典音楽安室流保存会 岡山創三線笛研究所
平成2年(1990年) 八重山古典音楽コンクール 新人賞
平成3年(1991年) 八重山古典音楽コンクール 優秀賞
平成5年(1993年) 八重山古典音楽コンクール 最高賞
平成12年(2000年) 八重山古典音楽安室流保存会 三線教師免許 取得
平成18年(2006年) 八重山古典音楽安室流保存会 横笛教師免許 所得
平成25年(2013年)9月 とぅばらーま大会 歌唱の部 最優秀賞
令和5年(2024年)2月 八重山古典音楽安室流保存会 三線師範 取得
令和7年(2026年)1月 八重山古典音楽安室流保存会 横笛師範 所得
Q1:出身地はどちらになりますか?
父親の本家は大川で、旧姓は、崎山でしたが諸事情により岡山に改姓したようです。母親は竹富島の出身で、私自身は生まれも育ちも字石垣になります。4月1日生まれなので、早生まれでほぼ1年違いの同級生たちだったので、身体は小さい方になっていました。一つ上の姉と八つ下の妹がいて3人姉弟ですね。姉はアメリカ在住で、妹は宮城県仙台市在住で、2023年度のとぅばらーま大会で最優秀賞を頂いた“山田たかね”です。私が笛を担当して、囃子を比屋根祐君にお願いしました。

Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください。
唄三線の師匠である父親ですが、その当時は中学校美術教諭で、母親も中学校・高校の養護教諭をしていました。
親父は玉代勢長伝先生のところで唄三線を、母親は山森喜代子舞踊研究所で八重山舞踊をしていました。親父が自分の研究所を始めたのは40歳頃、私が小学生の頃で最初の弟子が新盛勝一さんだったと思います。研究所始める前は、あくまでも自主錬や、踊り手に渡す地謡用の音源のカセット録音などを自宅の一番座でやっていましたね。「録音するから静かに」と言われて、その時は家族全員で静かにしていたことを覚えています。知っている民謡などは思わず口ずさんでしまい、録音やり直しになったりした思い出がありますね。自宅で父親が唄三線して、母親が八重山舞踊して、八重山民謡を自然に耳にしていて、三線や工工四が普通に傍にある環境ではありましたが、父親から三線をやってみるか?とか声かけられたことはありませんでした。
Q3:創少年が唄三線を始めるきっかけは?
小学時代はサッカーとバレーボールを夢中でやっていたのですが、小学4年の頃に、石垣小学校に三線クラブがあり、新川の入嵩西純先生が教えてくれていました。郷土学習の流れで学習発表会に三線発表しようということになり、家に三線ある子は持って来て、という流れだったと思います。なので、父親ではなく、学校で練習することになったのですが、自宅にある工工四の読み方を父親に教えて貰い『安里屋ゆんた』『でんさ節』を学習発表会で披露したのが最初のきっかけですね。その当時、母親が観に来てくれて、私以外の子は、工工四を見ながら必死に弾いているのに、あんただけは、正面に顔上げて三線を弾いていたね、と褒めてもらえたことを憶えています。父親からは「三線やりなさい」とか一切なかったですね。

Q4:その当時からお父様の教えは厳しかったですか?
その小学校の三線クラブの時は、父親からでなく、学校で教えてもらったので、譜面の読み方ぐらいでしたね。でも、この後中学3年生の時に、姉と一緒に父親に師事した後でも、父親に厳しく唄三線を教えらえることはそんなになかったですね。父親の教えは、細かな技術ことではなく、大きな枠の中で八重山唄のベーシックな部分をちゃんと押さえていれば、少々の音程のズレなど気にせずに、それよりも八重山うた独特の柔らかさを大事にしないさいというものでした。
Q5:どういうきっかけでお姉さんと一緒にお父様に師事することになったのですか?
私自身は、小学校、中学校はスポーツに夢中でした。また多感な中学生時代は、同級生から「えー?三線やってるばぁ?おじーみたいなぁ」とか、良い反応は皆無だったので唄三線をやっているとは言えなかったです。そういう経緯から“八重山民謡や唄三線はカッコ悪い”という思いもあり、良いイメージが無かった分中学時代はまったく八重山の芸能などに興味がなかったのです。
ですが、私が中学3年生の時、姉貴が八重山高校1年生でしたが、「高校の郷土芸能部が全国大会などに出場して優勝したりして、凄くカッコいいよ。」と八重山芸能に真剣に取り組む郷芸部の先輩たちの話を聞かされて「え?そんな魅力的なの?」と思い、これまでの真逆に、憧れを感じるようになりました。これが私にとっての大きなターニングポイントでした。それで、姉貴と一緒に、唄三線始めてみようか?という相談していたところ、母親が「それなら、先ず自分たちでお父さんにちゃんとお願いをして始めなさい」と言われて。姉貴と二人で、父親に正座して入門をお願いしました。正式な唄三線のスタートは中学3年生にありますので、周りの唄者の方々と比べると遅い方だと思います。
唄者としてもうひとつ大きなターニングポイントがありました。中学を卒業して、姉貴と同じ八重山高校に進学したのですが、その時には郷土芸能部には地謡が少なくて、すぐに私にも声が掛かりました。入学して直ぐに農林高校での郷芸部の3校合同稽古に参加したのですが、たしか「あかまた節」だったか?を唄っている時に、「そんな蚊が鳴くような腹から出してない唄しか唄えないなら、帰れ!!」と皆の前で姉貴に怒鳴られたんですよ。確かに、それまでは、表面的に上手く唄おうとして、腹を絞るのではなく、口だけで唄っていました。姉貴に部員の前で怒鳴られたので頭に来て!(笑)思いっ切り、これでもか!というぐらい腹を絞って大きな声で唄ったんです。初めてのウフドゥゲーリでしたね。その時に初めて「あ、こんなに声出せるんだ、唄えるんだ!」と気付いて、それから唄に対する思いがガラッと変わりました。あの時、踊りの地謡だったからで、普通に唄三線の場だったらもしかしたら絶対に気づけなかったと思います。何よりも姉貴に怒鳴られたおかげですね。よくケンカしていましたよ(笑)

Q6:高校時代には郷土芸能部での活動だけでしたか?
高校入学しても小学・中学でずっと続けてきたバレーボール部に入部して、郷土芸能部にも籍をおいていました。でも身長もあまり伸びず、その分頑張り過ぎて、腰を痛めてしまって。高校2年からは団体競技でない硬式テニス部に所属しました。郷土芸能部としては、毎年県大会に出場すれば入賞して、沖縄県代表として全国大会に派遣されているぐらいでしたが、大会前に参加して、演目を色々仕上げる感じでした。1,2年の頃は、八重高単体では部員の人数も少なく、八重山3校の合同で出場していました。3年生の時には、部員数も増えていて、八重高単体で出場することが出来ました。郷芸部の地謡は、スポーツ部の掛け持ちで在籍する生徒が多く、その年の演目毎に、離島出身者に声掛けして参加してもらったりしていました。
高校3年生になると、いよいよ大学受験で忙しくなってきて、勉強する時間が増えてきたのですが、古典音楽コンクールの最高賞に挑戦できるタイミング(優秀賞から2年目)だったんです。それまでは高校生で最高賞を取ったのは新良幸人さんやまだ数人しか居ない中、せっかくなら挑戦しようと決めて、受験勉強の間、1時間だけ集中して稽古に励みました。とにかく最高賞への課題は覚えることが多くて大変でした。自主練しつつ、父親の最高賞に向けてのお弟子さんたちの稽古にも参加しました。親父は、細かく指導するタイプではないので、自分で気づきなさい、というタイプですね。今では私が自分の弟子を指導する側ですが、弟子にどう伝えるか?どう気づかせるか?はいつも悩んでいます。
Q7:高校卒業後は?
沖縄本島の琉球大学に進学しました。姉貴が沖縄国際大学に進学していまして、先に琉大の“八重山芸能研究クラブ(以下八重芸)“に所属していました。その当時の八重芸は毎年正月明けのタイミングで石垣公演を行っていて、最高賞に合格した高校3年の正月に八重芸メンバーが挨拶まわりでお家に来てくれたことがあり、その時に30人程の大学先輩方を前に一曲歌わされたりしました。そうすると、先輩方に、「琉大に、八重芸に来いよ!」と声かけられるわけです。その時は、まだどの大学、どの学部を目指すか迷っていました。親父が先生だったので、なんとなく小学校の先生を目指すべきなのかなぁと考えていましたが、2つ上の八重高の先輩で黒島直哲さんが「琉大は日本国文学専攻コースで八重山方言を研究しているよ」と教えてくれて。「え!八重山方言を大学の勉強として出来るの!?」と驚きました。最高賞にも挑戦し、合格した流れもあり、自分が頑張ってきた八重山うたに直結していて「自分には、これだ!!」となりました。そして、私の受験の年から推薦枠が新設されて、とんとん拍子で推薦合格出来き、琉大の八重芸にも入部することになりました。本当に、”タイミング“というか”縁”を感じましたね。
でも、あまり学業の方は上手く行かずで、そろそろ大学を辞めた方がいいかなぁと思った頃に、父親から「中途半端で辞めて帰ってくるよりは、なんとか、頑張って卒業して帰って来い」と言ってくれたので、「よし!なんとか卒業しよう!」単位を取り直し、1年間がむしゃらに八重山歌謡の節歌をテーマに色々な先生の話を聞いて勉強して卒論を仕上げて無事に琉大を卒業しました。その時に音声学やら色々学ぶことがあったので、それが私の基礎になっているかもしれません。
大学卒業に時間がかかってしまいましたが、卒業後は直ぐに石垣島には戻らず、自分に不得意な分野、苦手な仕事、を経験して帰省しようと思い、1年ほどオリオンビールに契約社員として採用してもらい営業部でホテルや空港に配送したりしたのですが、また、八重芸の先輩から唄三線を活かせるよと紹介された浦添の特別養護老人ホームの介護の仕事に就きました。そこでも色々な方に目を掛けて貰って、施設長から「いい人材がいます」と理事長へ本採用に向けて紹介してくれたりしたのですが、私は近いうちに石垣島に戻りますと伝えてガッカリさせてしまったりしましたね。
老人ホームでのことですが、八重山出身のお箏の先生をしていたお婆ちゃんが居ました。「あー」「うー」と声は発しますが、一切言葉は発しない方だったんですが、ある時、「今日は、僕が一緒に唄三線で唄おうね」ということになり、昔の子守歌や『あがろうざ節』を唄ったら、そのお婆ちゃんが一緒に大声で唄い始めて、ケアマネージャーや施設長がびっくりして「〇〇さんがしゃべっている!歌詞を唄っている!」と施設スタッフの皆が集まってくる程の事件になったくらい。その時に、幼少の頃から聴き馴染んだふるさとの謡(うた)は人間にとって特別なモノなんだ、八重山民謡にはその不思議なパワーがあるんだと感じました。
なので、研究所で弟子にも「今唄っている八重山の謡(うた)は、一生唄い続ける、棺桶に片足つっこむまであなたの人生に付き合う謡(うた)になるはずだから、急ぎで上手くなろうとしなくていいよ、あせらず大事に向き合って唄ってね」と伝えています。

Q8:そして、いよいよ石垣島に戻ってくるんですね?
市の採用試験に合格したのをきっかけに島に戻ってきました。平成16年には戻って臨時職員として働き始め、平成17年から石垣市役所に本採用されて職員となりました。が、それと同時に石垣字会の活動にもどっぷりとなりました。そんな大きな組織ではない字会なので、人も少ないので、何でもやらないといけないです。旧盆のアンガマの地謡は大学時代から夏だけ戻って来て参加していましたが、豊年祭の旗頭、獅子舞、棒術など、むらの地謡も含め何役もしないといけなくて。字会の活動と同時に、安室流保存会や八重山古典音楽協会の活動はもちろん、石垣市職員として唄三線での歓迎行事や八重山民謡に関わる全ての事柄に関わることになりました。
Q9:とぅばらーま大会への参加はどのような流れでしたか?
1回目の挑戦は平成24年で、その時に優秀賞を頂きました。そして翌年の挑戦2回目で最優秀賞を頂きました。ただ、その時は自分の唄がまだまだフワフワしているような状態で定まっていなかったです。運よく評価頂いたというのが実感でしたね。自分が求めている“とぅばらーま”を追いかけている途中でしたので技術的にも、気持ち的にも不安定でした。“とぅばらーま”は八重山うたの唄い手であれば特別な謡(うた)なのですが、大会への挑戦する数年前から自分の中で「“とぅばらーま”はこのような謡(うた)では?」という自分の解釈というかイメージ的なものが出来上がってきたのですが、実際に歌ってなぞってみると、それが全然出来ないのです。そもそも、それが出来ないのに人前で唄うこと、大会へ参加することは出来ない、と思っていましたので、その当時は寝ても覚めても、料理するときも、風呂入る時も“とぅばらーま”のフレーズを鼻歌などで当ててみたりしていました。が、なかなか思うような唄にならない。そう思いながらも、「いや、そろそろ自分もやってみないと!」と思い、出場し優秀賞を頂いたのですが、当然、自分の力量やら自分の気持ちとして全然納得いく謡(うた)にはなっていなくて。そして、翌年も挑戦したのですが、また寝ても覚めてもの状況で。丁度2012年9月に出版された大田静男さんの「とぅばらーまの世界」の沢山の先輩方の”とぅばらーま”を聴きこんで、とにかく試行錯誤の日々でした。そんな中、腹の締め方、喉の使い方などがしっくり来て「あ!自分のイメージはこれだ」という発声に手応えがやっと出来てきていたのですが、でもやはり、まだまだ不安定ではありました。そんな中での最優秀賞受賞でした。でも、このとぅばらーま最優秀賞の経験を経て、自分の唄と相当向き合う時間があったので、おかげで自分のイメージする歌と、実際の歌とがようやく近づいた時期もありましたね。今はちょっと唄えない状況になっていますが、また、これからゆっくり時間をかけてリハビリしながら唄っていこうかと思っています。

Q10:“とぅばらーま”は八重山の謡(うた)では特別ですか?
八重山の人の“とぅばーま”に対する思いや価値観が様々で、表現方法が違ってもどれもが当たりであったりもする。特に人が聴き入る謡(うた)であり唄い手の表現力が求められる謡(うた)でもありますよね。古典民謡の場合、ある程度の“型”があり、その“型”が決まればOKという部分があるが、“とぅばらーま”は如何に“型”を破れるか?その人にしか出せない“タノール”を表現するか?というところもあります。もちろん、“とぅばらーま”の型、いわゆる基本型を表現できるという前提でないといけないと思いますが、“聴く人”によって、“唄う人”によって、いかようにも表現できるのが“とぅばらーま”なので、自分の中でまとまることがない、完成系がない、難しい謡(うた)なのかもしれません。こんなに多様で自由な八重山らしい謡(うた)は唯一無二かもしれませんね。
八重山のうたの技法についても、昔から「八重山うた勉強する人は、ユンタ・ジラバも勉強したほうが良い」とか、「八重山うたで上手くなりたいならユンタ・ジラバをすると近道だよ」とか、他はどうか知りませんが、私の父親も含め先生方のそういう発言を良く聞いたものです。私も琉大の八重芸時代から後輩たちに指導する中で、ユンタ・ジラバ・アヨウのなかにあるブリヨウ(謡い方)や技法などがやっぱり三線歌(節唄)が八重山らしくなるには不可欠な要素だと実感してきました。島に戻って弟子たちに指導する中でも、それをすごく感じます。八重山うたの基本は方言(すぅまむに)で綴られているので、すぅまむにの発音や子音の響き、発話の仕方などでイントネーション、アクセントなど、いわゆる訛りが抑揚となり、自然に八重山らしさを感じるうたへと雰囲気がガラリと変わる魅力があります。「話す(喋る)ように歌いなさい」というのもそういう事かぁ、、と感じますね。
“とぅばらーま”の唄を支える、囃子や笛も、ただ唄い手に合わせるだけはない。囃子も笛も、いい意味で唄い手と勝負しているんですよね。これは他の八重山の謡(うた)の場合もそうですが、“唄を支えている”けど、ただの伴奏ではなく、唄い手の息遣いを感じながら、「あんたがそう表現するなら、オレもこう表現するよ!」という駆け引きをしているんですよね。お互い邪魔はしないが、しっかり主張はする、これが八重山の芸能の中には息づいていると思います。笛の場合、基本は、唄の邪魔をしないように、「唄の先にでなく、後から」なんですが、中には、唄メロディとは違って、時には先行し、生き物のように唄メロディのまわりをグルグルと回遊しながら伴奏している感覚もあるように感じます。唄の伴奏する三線や笛や楽器、囃子も「唄をどう活かす」為のとてもユニークなアプローチが八重山の謡(うた)にはあるなぁと思います。

Q11:最後に今回の収録で『鳩間節』を選びましたか?
収録のお話を頂いて、敢えて横笛の独奏ならどの唄にしようか?と非常に悩みました。笛も演奏ではなく、唄だと思っているので、地謡でも唄者の伴奏でなく、“唄い合い”と思って吹いています。それで、八重山民謡の独特の笛のスタイルをイメージした時に、仲里榮芳先生が吹く玉代勢長伝先生のCD音源の『鳩間節』でした。ずっと真似して吹いて来たのですが、数年前に榮芳先生にレコーディングした当時のお話を聞く機会があったのですが、「実は収録した『鳩間節』は普段吹いたことが無い。いつも吹いているスタイルでない形で吹いた」という事だったんです。また、玉代勢長伝先生も収録した唄は、いつもの教えていたようなベーシックな唄い方ではないものもあるようなんです。
私も弟子に教える際は、先ずは「唄の基本、型をしっかり身につけなさい、それをしっかり自分のモノにしたら、それからは自由に自分のスタイルで唄いなさい」と伝えています。これはあくまでも私の勝手な推測ですが、長伝先生たちも、レコードやCDなどカタチにして残す時には、弟子たちに教えているであろうベーシックな型よりも、敢えて自分の表現できる最良のスタイルで収録しているのではないか?と。そうなった時に、笛の榮芳先生も、ベーシックではなく、敢えて、長伝先生の唄との“バトル、織りなす”というシチュエーションではなかったか?と勝手に想像して楽しんでます。あくまでも、私の想像ですけど。
そういった経緯を知らずに、私にとってはとても魅了的な『鳩間節』となっていた。
地謡で笛を吹く場合、唄三線が何人も居る場合でも基本独りで演奏します。その唄や音に負けないようにするか?邪魔せず、どう気持ちよく唄ってもらえるか?その“バトル、織りなし”がただ寄り添う伴奏ではない、八重山の独特な笛文化、謡(うた)文化を作っているのでは?と思っています。
「キレイな音でキレイに伴奏する」といった洗練された技法ではなく、島っぽく、シンプルに八重山らしさ、逆にカチコチだけどやっぱり味がある。そういった島の原風景のような笛メロディが今は大好きですね。
そういう意味では、私の八重山の謡(うた)の原点を収録してみました。

動画:「鳩間節」https://youtu.be/JdbeHuagbXo










