,

【八重山の唄者】第1回 糸洌長章

糸洌長章(イトスチョウショウ)1946年生まれ
石垣市石垣在住
八重山古典民謡保存会 糸洌長章研究所
平成27年(2015年)6月に沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡保持者に認定。

Q:出身地はどこですか?
西表島西部の稲葉(いなば)です。当時、父親の軍隊の木炭を作る仕事の関係で稲葉に家族で生活していました。戦後、父親がバス会社の社長をしているおじさんに呼ばれ宮良に単身移ったのですが足の大怪我で入院してしまい、家族はその知らせで私が3歳頃に石垣島に戻りました。

Q:どのような幼少期を過ごされたのですか?
父親の大怪我の治療費を支払う為に、石垣にあった家屋敷や畑などはすべて手放していました。住む家もなかったので、入院している父親のベッドの横で母と私は寝泊まりしている状態。兄と姉は丁稚奉公で働きにでました。とにかく厳しい生活が続き、中学を卒業したら就職するつもりでしたが、バス会社のおじさんの勧めで、バスの車掌のアルバイトしながら高校(八重山高等学校)に通いました。八重山民謡は親子ラジオから流れる唄を聴くくらいで、まったく民謡とは無縁の日々でした。

Q:八重山民謡との出会いは?
色んな人の勧めやサポートのお陰で、琉球大学への進学を決意して、入学試験を受けることになりました。一次試験は八重山で行われ、合格しました。沖縄本島で行われた二次面接で、試験官が「糸洌君、八重山民謡の『舟越節』で、村人たちは、はじめに自分たちをここに連れてきた役人を恨んでいたが、最後には、ここに来て良かったとなぜ言ってるの?」と質問されました。これまで、三線を弾いたこともなければ、民謡を唄ったことも無い私にとって、これは予想外の質問。頭の中は真っ白になり、答えることも出来ず次の質問の記憶が無いほど動揺してしまい、てっきり不合格だと思いましたが、合格することが出来ました。民謡の歌詞の中には、地理やその時の歴史など勉強するところがあると考えるようになりました。

琉球大学の地理学科に入学後、八重山を離れて初めて感じる八重山への想いから、琉球芸能研究クラブに入部し、唄・三線を習い始めました。もちろん、クラブでは琉球古典音楽がほとんど。八重山民謡は、自分の姉の長男から教わりました。大学2年になった時、部長に「八重山民謡もやりましょう」と提案したら断れてしまいました。そこで、「八重山芸能研究クラブ」を作ろうと、八重山出身者に声を掛け、1年目は同好会というカタチで立ち上げました。(その後、琉球大学八重山芸能研究会は50年間活動を続け、2019年3月に惜しまれつつ解散)クラブ結成の時、誰から指導してもらうかという話になり、識名で民謡教室をしていた大濵安伴先生(1912-2001)に、舞踊は寄宮に住んでいた香川キミさんにお願いすることになった。

 

Q:どのようにして八重山民謡を学びましたか?
琉大時代は、八重山芸能研究クラブを立ち上げましたが、私は地理研究クラブの部長をしていたので、一切クラブには関わっておらず、そこで民謡を学ぶことはありませんでした。誰かに師事したりすることはなく、ほとんど独学で練習していました。唄は親子ラジオで四六時中民謡が流れていたので、工工四(譜面)を読むのではなく、聴いた音を自分で探って弾いていました。とにかく、分からないことがあれば、色々な文献を調べたりして、いわゆる習い事でなく、八重山民謡の唄われる時代背景も含め独学で研究をしていたのです。大学を卒業し、昭和44年(1969年)4月に八重山商工高校に赴任後、郷土芸能クラブを結成させて顧問になりました。その頃は、八重山民謡を教える研究所(教室)はほとんどなかったので石垣島に戻っても独学での研究が続いていました。

Q:研究所に入門するきっかけは?
八重山古典民謡コンクールを受けたのですが、合格することが出来ませんでした。合格する為には、研究所に入門する必要があると思い、昭和54年(1979年)4月に、宮良長久研究所に入門。平成8年(1996年)3月に教師免許を所得し、同年4月に「糸洌長章研究所」を開設。平成20年(2008年)2月に師範免許を所得しました。

Q:最初の三線はどう手に入れた?
大学時代は、那覇の姉の家にあった三線を借りて弾いていました。卒業し、教員として商工高校に赴任して最初の給料で、自分の三線を買いました。黒檀の三線などはとてもじゃないが高価で買えませんでした。
現在メインで弾いている三線は、教員を定年退職するときに記念で作ってものです。もう一丁特別な三線があります・・・50年前に、伐ったばっかりの黒木を友人から買い取ったものを自分で三線を作る事にしたのです。教員して4、5年経った頃に自分の研究も兼ねて、三線を計測し、図面も作って三線を作りました。その三線も手放せない大事な三線になっています。

Q:一番好きな八重山民謡は?
1番好きな曲は「つぃんだら節」「月ぬ美しゃ節」。次に「デンサー節」かな。ステージで良く歌うのは「つぃんだら節」。

Q:高校教員時代は、三校の郷土芸能部の顧問を担当し、定年まで続けられたのですか?
そうですね。石垣の三校(八重商工/八重高/八重農高)で郷土芸能部の顧問を38年間務めました。昭和54年(1980年)に沖縄県高等学校文化連盟が結成されて、高校生の文化活動が活発化していきました。昭和63年(1988年)から全国高校総合文化祭に、八重山の三高校合同で出場し高い評価を受けていました。しかし、三校合同の場合、最優秀賞・優勝賞の審査対象外になっていた為、三校の顧問で話し合い、平成6年(1994年)から審査対象になるよう単独校で挑戦することになりました。そして、第18回愛媛大会で、八重山高校が「黒島口節・みなとーま」を演じ、見事第1位の最優秀文部大臣賞を受賞し、国立劇場で東京公演を行いました。これまでの高校での郷土芸能指導で、平成6年(1994年)5月沖縄県高等学校文化連盟文化功労賞を。平成12年(2000年)3月沖縄タイムス教育賞(学校教育部門特別活動)を頂きました。

Q:糸洌先生にとって唄・三線とは?
今となっては、唄・三線は歴史も含めて全て勉強してきたので、私の生活そのものと思うんだけど・・・人生の中でなにかにつけ唄があり、踊りがあったしね。
唄や踊りは、今のように譜面などほぼ無かった時代は口伝えの伝承がほとんどだった。唄は(譜面など)見て覚えるのではなく、耳で覚えることが大事なのではないかと思います。
中高の郷土芸能部に入部してくる子の中には、本当に唄・三線の上手い子がいます。そういう子は大体小さい頃から地元の唄者に唄を習い、地元の豊年祭や祭事などで唄って来た子なんですよね。地元の方言(スィマムニ)の正しい唄の伝承はとても大切で、私はこれからも民謡と方言は不離一体のものとして捉え、時代背景や時代考証を探求していきます。