八重山そばと八重山民謡

八重山そばと八重山民謡

沖縄のソールフードといえば間違いなく「そば」でしょう。そばと言っても”そば粉”は使わず、ラーメンの中華麺とほぼ同じ。先島(宮古・八重山)の方は少し黄色味かかってる小麦粉麺で、豚出汁と鰹出汁のブレンドしたスープで頂きます。各家庭に独自のそばスープレシピがあり“我が家の味”があります。石垣島市内には、大きなそば製麺所「金城製麺所」と「荷川取食品」があり、各家庭の定番として好みの麺があり“金城派”、“荷川取派”(さらに丸麺派、平麺派)と分かれていたりします。また家の味とは別に、お気に入りの食堂のそばがあり、家族で食べに行ったり、70年代後半から80年代頭には、「そばの出前」が当たり前だった頃もありました。島の皆さんそれなりのそばに「こだわり」があり、「あの店は味が変わった」だの「あの味が一番」とそばの話を持ち出すとずっと喋っている人が大勢います。

 

私の幼少の頃のそばの思い出・・・我家では登野城・荷川取の麺に、かまぼこと三枚肉の細切りと島ねぎをのせ、紅ショウガは無し。まずはそばどんぶりに麺をたっぷり入れて、前日から仕込んだ熱々の出しスープをかける。薬味は島コショウのピパーチ。泡盛に赤唐辛子を付けたコーレーグースーは大人の薬味でした。一気に一杯かきこんだ後は、台所に残る麺の袋に直接箸をのばして食べる。島で言う「からそば」。私は鯖缶やツナ缶、醤油などは一切入れずに生めんの旨味を最後に堪能していました。
また、当時は各食堂がよく昼食のそばの出前をしていて、四角いケースに、どんぶりにそばと薬味を入れ、大きな金色の丸いやかんに熱々のだし汁がなみなみ入って届きました。冷たい弁当とは違い、熱いスープを堪能できるそばの出前は、子供ながらに楽しみでした。
今や「そば選手権」なるコンテストなども行われ、おしゃれで手の込んだそばを出す店も増えましたが、食堂のそばナンバーワンは、幼少の頃の思い出が強い新栄町のスーパーローカルな小さな店「なかよし食堂」。

ところで・・・。
沖縄本島では「沖縄そば」。宮古島では「宮古そば」。そして八重山では「八重山そば」。
宮古島・八重山の人々は「沖縄そば」とは決して呼びません。単純にご当地の名称だから、という理由ではなく「沖縄」とは一線を引いているように感じます。これは沖縄=琉球王朝に対する八重山の先人たちの思いが表れているのではないかと個人的に推測しています。

 

豊かな自然に囲まれ、青い海、白い砂浜、夏の太陽を満喫できる、全国でも有名な観光地となっている八重山諸島。しかし、沖縄本島から離れたこの先島(宮古・八重山)の歴史は決して南国の楽園ではなかったようです。

 

「人頭税」をはじめとする琉球王朝の圧政による厳しい年貢を納める為、八重山の島民たちはとにかく働き詰め。朝日が昇る前に起き出し、日が暮れるまで炎天下の中での畑仕事。また、島々から未開拓地へ強制移住。マラリアの恐怖の中での必死の開墾の労働作業。せっかく丹精込めて育てた農作物を奪う度々襲ってくる大型台風などの自然災害等。島民の労働は、隣近所での「結(ゆい)」を組んでの共同労働で、辛い作業時には皆で自然に歌を歌いながら行うのが常であっただろうし、過酷な労働の場は「歌」で溢れていたはず。真っ暗な帰り道は、歌う事で気を紛らしたことでしょう。

農作物が豊作であれば神に感謝し、来年の豊穣も祈る。不作であっても神への祈りの歌と踊りを捧げる。祭祀の場にも、いつでも歌と踊りは必要でした。

 

「組踊」を代表とする琉球王府の士族たちが嗜む煌びやかな宮廷音楽から派生した沖縄本島の歌や踊りとは違う、辛い生活の中で島民が唯一の”笑顔”になる為にはぐくまれた八重山の歌や踊り。
『詩の邦、唄の島、踊りの郷』と称される八重山諸島。
厳しい生活の中で八重山の人々を支えたのが「謡」であるならば、八重山の歌や踊りが数多く存在し豊かな歌文化が形成されたのは厳しい生活の裏返しだったのかもしれない。

 

そんなことを考えながら、今日も食堂メニューを一通り眺めて・・・結局、八重山そばを注文した。