「蓬莱行〜大和、八重山、台湾へと音の旅路は続いていく〜」(前編)

 2014年の夏、僕は台湾島のはるか南にある台東空港に降り立った。そこはまるで昔の石垣空港のようにとてものどかで、降り立った瞬間に柔らかく暖かな空気が身に寄り添い、僕を歓迎してくれた。

 空港を出ると、周りには立派な梯梧の木や鳳凰木が立ち並び、道沿いには水路が流れ、サガリバナなどが咲き誇る光景が広がっており、まるで石垣島の原風景のような景色が広がっていた。素朴な人々や古びたタクシーが道を行き交い、亜熱帯特有の蒸し暑くもゆるやかな街の空気が満ちあふれていた。

 台湾の東海岸に位置する台東市は、人口約11万人の都市で、台東県の県庁所在地で、自然が豊かで文化的な魅力のある街である。

 まず、台東市には美しい自然が広がっており、海岸線には青い海と白い砂浜が広がり、海水浴やマリンスポーツが盛んな土地である。さらに、台湾でも有数の山岳地帯があり、台湾最高峰である玉山を含む中央山脈が西側にそびえている。

 また、台東市は台湾原住民族の文化的な拠点でもあり、アミ族、ブヌン族、ペナン族などの原住民族が多く居住しており、その文化や伝統が色濃く残り、原住民族の博物館や文化センターなどがあるため、その文化に触れることができる。

 そんな台東市は、鉄道やプロペラ飛行機などに交通手段が限られているため、首都である台北、高雄、台南などと比較するとアクセスがやや不便な地域でもあるが、その分、自然や文化、イベントなど、本格的な台湾の魅力を存分に味わえる場所として知られている。

 台湾の話をするうえでは原住民族についてもここで触れておきたい。台東をはじめとする台湾島には、先住民族として、多くの原住民族が存在している。彼らは独自の文化、言語、伝統を持ち、台湾の多様性を象徴する存在である。台湾の原住民族は、主に高山地帯や沿岸地帯に居住しており、彼らは台湾が漢民族によって支配される以前から台湾に居住していた。そして、17世紀末から18世紀にかけて、オランダ人、スペイン人、清朝などの外来勢力が台湾に進出し、原住民族と接触していた。その後、日本統治時代には、原住民族の土地が大量に没収され、彼らの文化や言語も抑圧された。現在は、台湾の民主化によって、原住民族の文化的地位や人権が保障されるようになってきている。台湾の原住民族は50以上の民族に分類され、彼らが話す言語にはアミ語、タロコ語、パイワン語、タオ語など、多様なものがある。また、原住民族の文化や伝統には、狩猟、採集、農耕などが含まれており、伝統的な祭りや儀式も多く存在している。原住民族の伝統的な衣装や手工芸品なども、観光客に人気がある。

 あわせて、八重山諸島と台湾との関係性についても触れておきたい。八重山諸島と台湾は地理的な面から見て南西に約270km離れており、気候や自然環境にも共通点がある。また、歴史的には、「与那国往来」と呼ばれる古くから台湾との交易が行われていた記録が八重山諸島には残っている。与那国島からは台湾島がとても近く、日本最東端の岬である西崎からは、天気が良いと台湾島が見えることもある。

 さらに、言語や文化面でも八重山諸島と台湾には共通点があり、八重山諸島の方言には、台湾語の影響が見られる。琉球王国時代には、八重山諸島と台湾を結ぶ海上交通が盛んで、琉球王国は台湾に駐在員を置いたこともあった。そのため、台湾との交易が盛んで、石垣島や与那国島はその交易路の中継地点の一つだった。19世紀後半からは、台湾からの移民が石垣島に定住し、パイナップルやマンゴー栽培、水牛を使った稲作など、台湾から伝わった文化や風習が石垣島には根付いている。現在でも、石垣島の食文化には、台湾から伝わった影響が見られる。

 最近の関係では、八重山諸島と台湾の交流が再び盛んになっており、観光や文化交流などの分野で双方の交流が深まっている。また、台湾は八重山諸島に近いことから、災害時にはお互いに支援を行うなど、緊密な関係が築かれている。

 では、なぜ、僕はこの地に降り立ったのか、それは台湾デザインセンター(Taiwan Design Center, 以下TDC)と石垣市との交流事業の一環で、その年の夏、台東市にある日本統治下時代の建造物の製糖工場跡地でのデザインイベント「Taiwan Design Expo」への石垣島のクリエイティブを海外へ発信するというコンセプトのプロジェクト「石垣島クリエイティブフラッグ」(現在は法人民営化)出展のためでもあったのだが、さらに、台湾デザインセンターからの要望により、イベント期間中に石垣島のアーティストによる音楽イベントを開催して欲しいという依頼があり、僕はそのディレクターを務めることになり、台東の地に足を踏み入れたのである。(ちなみに、TDCは2004年に台湾政府の文化部が設立したデザインプロモーション機関であり、台北を拠点に人材育成、企業のデザイン導入、企業とクリエイターのマッチング、デザイン商品の販路開拓、デザインによる国際交流など、幅広くプロジェクトを展開している。2020年には、「台湾設計研究院(Taiwan Design Research Institute)」へと改組・改称されたが、本稿では2014年当時の名称である「台湾デザインセンター」と表記する。)

 さて、そんなTDCからの要望を受けて、すぐに思い浮かんだのが石垣島出身のアーティストである大工哲弘さんである。そして、あわせて大工さんが2003年に発表したアルバム「蓬莱行(ほうらいこう)」も思い出した。この「蓬莱行」は、琉球と台湾の文化的な交流をテーマに制作された2枚組の大作である。いまだに名盤として高く評価され、民謡の枠組みを超えて、著名なアーティストたちからも高い評価を得ている、大工さんの代表作として知られている。

「大工哲弘/蓬莱行」

【大工哲弘プロフィール】

1968年、山里勇吉に師事して本格的に八重山民謡を学ぶ。
県内外及び海外コンサートにも多数出演し、中・東・北欧、米国、中米などで公演を行い、1996年には南西アフリカ5カ国を巡回したコンサートも開催した。また、1998年には東南アジア諸国、1999年には環太平洋4カ国をまわり、2011年には南米4カ国を巡回し、世界中での活動を続けている。
さらに、世界の民族音楽家、ジャズやロックのミュージシャンらとの共演も積極的に行っている。彼のCDアルバムもこれまでに20数枚リリースされている。
1999年には、沖縄県無形文化財(八重山古典民謡)の保持者に指定された。2015年には琉球民謡音楽協会の名誉会長に就任し、同年には全沖縄の民謡協会9団体の共同代表となった。
八重山地方に伝承される多彩な島の歌をこなし、八重山民謡の第一人者として地位を築いている。その島唄に愛情を込めて歌う姿勢には多くの共感者がいる。
また、彼は八重山民謡教室の支部を全国に展開し、沖縄・八重山民謡の普及・育成にも力をそそぐ。現在、沖縄で最も幅広い活動を展開しているミュージシャンの一人である。
[出典:大工哲弘公式ホームページ]

 作品「蓬莱行」は一聴すると沖縄民謡あるいは民謡ポップスのように聞こえるが、総勢30名もの多種多様なアーティストが参加しており、ロックやジャズ、ブラジル音楽、チンドンなどの要素が随所に取り入れられているため、沖縄民謡界の大御所が発表するには非常に意欲的な作品だといえる。僕は、20歳の頃にはパンクロックやダンスミュージックに夢中だったため、大工哲弘さんの事はあまり知らなかったのだが、初めてこのアルバムを聴いた時には「なんだ、この民謡っぽくないエキゾチックで刺激的なアルバムは⁉︎」と、とてもテンションが上がった。そして、それが同郷のアーティストだと知った時にはとても感動し誇りに思った。(その後、大工さんが僕の父親と同級生であるということも知り、尚更に驚いた。島の人間関係は密接であるということを改めて感じた事柄である。)


 「台北から更に南下した小さな街」、「原住民族の文化が色濃く残る街」、「日本統治下時代の製糖工場跡地でおこなわれるイベントでの音楽プログラム」、「八重山の音楽文化を紹介する」などの要素を取り入れたセンテンスから、海外公演経験のある島のアーティストが相応しいと考えた。そこで、世界中の全ての大陸で公演をおこなった経験を持つ大工さんを迎え、作品「蓬莱行」の再現に特化したステージを企画したのである。

 この企画において、大工さん、そしてアルバム「蓬莱行」に白羽の矢を立てた理由は、単に作品の内容が台湾、大和、琉球を音楽的につなげるという点だけでなく、タイトル名「蓬莱行」が持つ言葉の意味にも惹かれたからである。

 「蓬莱行」とは、映画やドラマでもたびたび取り上げられるほどに、いまだに人気のある中国の古典小説「西遊記」に登場する、主人公の孫悟空らが仙人たちが住むとされる伝説の島・蓬莱島に向かう旅のことを指す。「蓬莱行」は、字義通りには「蓬莱への旅」という意味になる。しかし、「西遊記」においては、孫悟空たちが千里眼や順風耳などの特殊能力を駆使して、蓬莱島へ向かう過程でさまざまな冒険や試練が待ち受けている。そのため、「蓬莱行」という言葉には、人生の旅や修行の意味合いも持っているとされている。また、「蓬莱行」は、中国語の慣用句としても使われており、例えば、「蓬莱行が果たせない夢」という表現があり、これは達成困難な目標を意味している。

 まず、この企画がおこなわれる場所が、僕が住む石垣島ではなく、沖縄本島や東京都内でもなく、国外の台湾であり、さらに首都台北から遠く離れた田舎町の台東でのライブパフォーマンスであることは、多くの不安要素を引き起こすものであった。どのような人々が参加するのか、英語や中国語が不得意である中で、現地スタッフとの意思疎通に問題が生じる可能性がある。また、マイクやスピーカー等の音響設備やステージの状態も不明であり、2日間にわたる要望にも対処しなければならない。

 くわえて、会場は製糖工場跡地である。一般的に製糖工場といえば、煙がもくもくと立ち上がり、サトウキビをこれでもかと積みまくったトラックがあくせくと往来し、かなり無骨な鉄筋鉄骨の建造物という、石垣島にある製糖工場のそんなイメージしかなかったのである。そんな場所でのデザインや音楽イベントという挑戦は、一見無謀なチャレンジにも思えてならなかったのだが、だからこそ逆に大きなチャンスでもあると感じたのである。

 どのようなチャンスかといえば、僕が20歳の頃に影響を受けたアルバム「蓬莱行」を実際にコンセプト地である台湾で再現できる機会や、石垣島をはじめとする八重山民謡を現地の人に体感してもらう機会、そして困難を乗り越えてしか得られない大変貴重な経験が挙げられる。今回の企画はまさに「蓬莱行」の再現そのものであり、これを絶対に成し遂げたい、チャレンジしたいという想いが胸いっぱいに湧き上がったのである。


(ステージとして使用した製糖工場内風景)

(後編へ続く)