,

【八重山の唄者】第14回 大工 哲弘

大工哲弘(だいく てつひろ)

 

生まれ年:1948年

出身地:石垣市新川

在住地:那覇市首里

研究所名:八重山うた大哲会

沖縄県無形文化財保持者(八重山古典民謡)指定

 

1971年 第8回石垣市主催「とぅばらーま大会」優勝

    八重山古典音楽安室流保存会・安室孫利氏より教師免許授与

1976年 琉球民謡協会より教師免許授与

    琉球新報社主催 第11回古典芸能コンクール 「笛の部門」最高賞受賞

1978年 八重山古典音楽安室流保存会 師範免許授与

1979年 極東放送社より「民謡大賞」受賞

1981年 琉球民謡協会より師範免許授与

1983年 琉球放送主催「第21回民王紅白歌合戦」民謡大賞受賞

1984年 野村流伝統音楽協会 教師免許授与

1996年 沖縄横笛協会 師範免許授与

1999年 沖縄県無形文化財保持者(八重山古典民謡)指定

2017年 石垣市「文化功労章」表彰

2018年 琉球新報社主催「第16回宮良長包音楽賞」受賞

2020年 第36回八重山毎日新聞社「毎日文化正賞」受賞

2021年 沖縄県文化功労賞 表彰

 

Q1:出身地はどちらになりますか?

石垣市新川の生まれです。5人兄妹の長男で下に弟と3人の妹がいます。

(19年下の妹は他界)

 

Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください

家は貧農家でした。長男だったので手伝いの日々でした。学校終わりで毎日草刈りして牛馬にハミ(エサ)を与えるのが私の日課で、土日は朝から一日中田畑で親父の手伝いでした。長男ですから、農家を継ぐのだろうなぁと思いながら手伝いをしていましたね。小中学生までは寡黙な少年でした。

 

Q3:そんな哲弘少年にとって唄三線との出会いは?

祖父の唄三線ですね。祖父は畑仕事から帰って来て、風呂入った後、寝間着に着替えて、晩酌しながら三線をテンテンと弾き始めるのが日課で。夕方に祖父の唄三線が流れるのが我が家のリズムであり、日常風景でした。子守歌代わりに唄三線の音が私の身体には沁み込んでいますね。

特に田んぼの作業で一番難儀で大変だったのが、中腰でトーサ(雑草)を取る作業。その作業を少しでも楽にする為に「ゆんた」を唄うのです。「うるずんぬ前ぬ渡ジラバ」とか「富崎野ぬ牛なーまユンタ」などを祖父が歌ったら親父が返したり、祖母が返したりして。「ゆんた」唄いながら作業をすると本当に仕事が捗りあっという間に終わるんだよね。そして、その掛け合いの唄が本当に素晴らしいハーモニーなんですよ。そして、「ゆんた」が盛り上がってくるとウチの家族だけでなく、祖父の「ゆんた」に、隣の田んぼから返してきたり。返ってくるとそれに負けじとまた祖父が唄を返す。その掛け合いの「ゆんた合戦」が凄くてね。

Q4:哲弘少年はその「ゆんた合戦」にも参加していたんですか?

その頃は、まだ「ゆんた」は理解してなかったので、みんなの掛け合いの「ゆんた」に聴き入っていましたね。「いつかじいちゃんみたいに「ゆんた」唄いたいなぁ」と思っていました。映画「サウンドオブミュージック」の世界。ダンスはしなかったけどね(笑)

ウチの祖父は、作業中だけでなく、疲れて休憩の3時お茶の時も唄うのです。で、帰ってからも三線弾いて唄う。昼間は「ゆんた」、夕方からは「唄三線」とそうやって祖父は大変な毎日を唄で乗り切っていたんだろうなぁと思います。

Q5:祖父の唄を聴いてきた哲弘少年が唄三線を始めたきっかけは?

昔は13歳を迎えると一人前の男になるということで盛大にお祝いをしていたのです。特に私は長男だったので、盛大に祝ってもらい、ご馳走も沢山用意してくれて、友達も呼びなさいと言われてね。みんなでワイワイやっていると、祖父が「今日は哲ちゃんの13歳のお祝いだから」といって三線を取り出しお祝いに唄ってくれるということになり、友達みんな緊張気味にかしこまっていたんですが、唄い始めるとなんと民謡でなく、馴染みのある童謡だったんです。みんなビックリして喜んでね。それまでは三線では民謡を唄うモノと思っていたので民謡を唄えない自分は三線なんて触ってはいけないと思っていましたが「三線でこんな曲も唄えるんだ!」と衝撃的で目からウロコ状態でした。その13のお祝いの翌日から床の間に飾ってあった祖父の三線を手に取って、試しに弾いてみたんですよ。そしたら、なんとなく唄えたんですよ。こんな楽しいコトはない!と思いそこから毎日学校から帰ったら三線ばかり夢中で弾くようになりました。家にあった工工四を勝手に読み始め、見様見真似で民謡の練習を始めました。

そうすると、隣近所の人達が「あい、隣の哲ちゃんは勉強もしないで、ずっと三線ばかり弾いてるよ」というのが噂になってしまって。それがとうとう親父の耳に届いてしまってね。親父は唄三線やることを好んでいなかった。何故なら昔から石垣島では「三線ぴきゃーはピラツカムン」(三線弾く者は怠け者)と卑下されていた風潮があり、将来、長男として立派な農家として継いで欲しいのに、三線ばかり夢中になってこのままでは遊び人になってしまうと思ったでしょう「三線やめなさい」ととうとう言ってきたんです。それでも唄三線に夢中でやめませんでしたけどね(笑)

 

Q6:お父さんから「三線やめろ」と言われて高校進学・・・

家が農家なので、高校は八重山農林高校に進学したのですが、唄三線に夢中で、とにかく色んなところで唄っていました。そして2年生の頃にそれまで高校には無かった郷土芸能クラブを八重山で初めて立ち上げました。集会の朝礼でクラブへの参加を呼びかけたら、なんと50名くらいが参加してくれて。私の一人では全員教えられないと思い、その当時、沖縄本島から着任したばかりの英語の新垣先生が唄三線出来るということで、手伝ってくれることになったのですが、琉球古典しか知らなくて八重山民謡は唄えないということが判明して。結局私がみんなに八重山民謡を教えることになったのです。その時、人に教えるにあたり、私の独学の唄三線は間違っていないか?を確認した方が良いと思い、曲ごとに都度都度、色々な三線の先生方に、自分の演奏方法は問題ないか確認してもらったのです。なので、私は一つの流派には属することなく、各先生方の唄三線を教えてもらいました。宮良長定先生、漢那長助先生、川田正光先生、川平亀先生、仲宗根長一先生などなど。
若気の至り、今考えると恐ろしいことをしていたなぁと思います。

高校時代 ホームルームでミニライブ【本人提供】

Q7:高校時代はどこかの研究所に通うのではなく、流派関係なく色んな先生方から曲ごとに指導してもらったですね?

そうです。教えて頂く先生方のそれぞれの唄い方を吸収できたわけです。そして、それを自分の唄にすることが出来た。とにかくその頃は、郷土芸能部で友達に教えるために必死でした。

こんなことがありました。ある先生に、気に入いってもらい、自分のところに習いに通いなさいと言ってくれた先生がいたんですけど、ある時、他の先生方の素晴らしい演奏を聴けたと報告したことがあったのですが。「そうか、それは素晴らしい」と喜んでくれると思っていたのですが、「お前、明日から来るな」と言われてしまったのです。最初は理解出来なくて。結局、自分のところに習いに来ているのに、他の先生の演奏が素晴らしいとはなんだ!ルール違反だ!という訳です。自分としては「良い唄を聴きたい」という思いだけで、唄の素晴らしさを語るのでなく、唄への拘りが強いが故に「あの人の唄い方は間違っている」と他人の唄を否定することにショックでした。そうした、大人の唄者の世界をひしひしと感じていました。その先生のところに通うのは止めました。

 

山里勇吉先生(中央)が芸能クラブ訪問(本人:後左から3番目)【本人提供】

Q8:唄三線に大忙しの高校時代ですね。

高校時代はのど自慢大会や色んな唄えるところにはどんどん出場するようになって、宮鳥御嶽で開催されていたとぅばらーま大会に出場しました。その時代は高校生が難しい、とぅばらーま大会に出場するなんてことは無かったので、主催者側が大変喜んでくれて、表彰してくれることになったんですが、賞状を用意していないので後日家に届けて頂きました。その当時、農林高校の担任だった白保出身の米盛先生が民謡界の大先生である山里勇吉先生と親戚で、「どうせなら、勇吉先生を学校に連れてこようか?」と言ってくれました。どうやら勇吉先生にも「農林高校で唄が評判の学生がいる」と耳にしていたようでクラブ室に来てもらうことになったのです。素晴らしい先生と実際にお会いできて大変光栄だったのですが、その勇吉先生が僕の歌を聞いて「君は高校卒業したら沖縄に来ないか?」と声を掛けて貰いました。私も憧れる勇吉先生から自分のところに来なさい、と言われて舞い上がってしまい、その気になってしまったのです。卒業したら沖縄本島に行く準備を始めたら親父が激怒しました。親父は「唄三線では食っていけない」と。もちろん、同級生の多くも「歌手で成功するなんて無理だ」とさんざん言われました。でもその頃、沖縄本島の若い歌手が公演で石垣島に来島すれば会場は超満員でとても華やかでした。私も彼らのように活躍する八重山民謡の歌手になりたい、と強い決意を持って卒業後沖縄本島に出ることにしました。

 

Q9:どうやって反対するお父さんを説得したんですか?

農作業の結まーる時に、親戚のおじさんたちが集まります。その時に「沖縄本島に出て唄三線を真剣にやりたいんだけど」と相談というか、ひとりひとりに自分の気持ちを伝えて説得して回ると「いや、哲ちゃん、お前がやりたいことやった方がいいよ。お父さんに自分からも言っとくよ」と言ってくれてね。結局、親父も私の熱意に負けて、沖縄に旅立つ時に模合を落として三線を買ってくれ「しっかり勉強して来いよ」とその三線をプレゼントされ送り出してくれました。71年親父が亡くなった後、母親にその買ってくれた三線の値段を聞くと200ドルという高額だったことが分かって、改めて親父の想いに感謝しています。

 

Q10:いよいよ島を離れて沖縄本島へ・・・
ボストンバック1個と親父からプレゼントされた三線持って、山里勇吉先生の内弟子になり、勇吉先生の家に泊まり込みで家族の一員としての生活が始まりました。もちろんアルバイトもしつつ。でもその当時の勇吉先生は超売れっ子の唄者でとても忙しかったのでなかなか稽古をつけてもらうことも難しい状況でした。そうするとどんどん時間だけが過ぎて行き、このままじゃ何しに沖縄に出てきたのか分からない、先生を頼っているだけじゃいけないと思い、与儀の小さなアパートを借りて、そこで友人を集めて唄三線を遊ぶ会を始め、自分の復習の意味で指導するようになっていました。それでも、時々、先生から声がかかり色んな所に演奏しに出かけて行きましたが、たまたま出会った評論家でルポライターの竹中労先生に声をかけて頂いて勇吉先生と一緒にレコーディングをさせてもらったのが1969年だったかな。そうするとその翌年の1970年には読売テレビの「全日本歌謡選手権」という番組に出場することになり、10週勝ち抜けばプロデビューさせてもらえるBEGINが勝ち抜いた「イカすバンド天国」みたいな番組でしたが、私は8週勝ち抜きすることになります。8週続けてのテレビ出演の影響は凄くてね。沖縄本島に帰ってくると「テレビに出ている人だ」と皆から応援して貰えるようになっていました。そして、コロンビアレコードとビクターレコードから契約の話がありました。「着物を着て歌謡曲歌う男性は居ないから絶対売れるはず」と歌謡曲歌手としての提案でした。自分としては八重山民謡の歌手でいたかったのでお断りしました。その提案頂いたレコード会社の高田さん(音楽評論家)とは随分時間が経ってお会いする機会があって、「あの時、私の誘いを断って正解だったね。あなたが信じた道を進んで、こんなにも素晴らしい唄が唄える唄者になっていて私も嬉しい」と言ってもらえました。

これはメディアでもお話させてもらっている事ですが、「全日本歌謡選手権」で8週目に落された時の審査員が言った「沖縄の言葉ではメジャーになれません。三線という楽器も沖縄のたんなる民俗楽器、沖縄の人達だけで楽しめばいい」という屈辱的な言葉がありました。私自身の唄に対する批判ならまだ納得しますが、沖縄伝統楽器文化に対する批判にとても腹が立ちました。そして、竹中労さんと心斎橋に飲みに付き合ってもらい、生まれて初めてお酒で潰れてしまいましたが、労さんに審査員からこんなこと言われてしまったけど、どう思いますか?と気持ちをぶつけたら「哲ちゃん心配するな、あと十年もすれば沖縄の音楽が日本の音楽シーンを席巻するよ。こんなオリジナリティがある音楽は日本シーンには無いから、自信持ってやりなさい」と言ってくれたのです。その言葉を信じ沖縄民謡の仲間、知名定男ら同世代の唄い手らと一緒に取り組んで頑張った、実際、90年代から竹中労さんの言う通りになりました。

Q11:その後のご活躍は皆さんご存じの通りですが・・・

25歳の頃には那覇市役所に勤務しながら、唄三線を続けました。職員となって、職場で三線サークルを立ち上げ、なにか那覇市の行事ごとがある度に余興として職員の地謡で対応していましたね。とても重宝されました。それ以外の唄者として出演する際はちゃんと役所に申請を出し、ギャラなどの出演料が発生する場合は、受け取ると公務員法に抵触するので、全て社会福祉協議会に寄付することにしました。社会福祉協議会も喜んでくれましたし、色んなところからの出演依頼もどんどん参加することが出来たんです。そうした唄者としての機会が増える環境を整えつつの活動でした。定年退職まで那覇市役所に務めて現在、若い弟子たちから力も借りつつ、マネージャーなどは付けず自分自身での唄者としてのマネージメント活動を行っていますね。

 

Q12:現在の研究所の活動やステージの活動は?

八重山民謡の研鑽を深め、継承発展に寄与すると共に会員相互の親睦を図る事を目的として「八重山うた大哲会」を設立して数多くの門下生が在籍し、沖縄はもちろんの事、北海道から九州まで日本全国各地に輪が広がり、多くの会員が歌三線と八重山の芸能の研鑽に日々努めています。那覇本部では毎週火曜日・金曜日の週2回の稽古を行っています。会員達は琉球民謡音楽協会に属して民謡コンクールや合格者の芸能祭、また県民謡合同連合会の発表会などの舞台で活動しております。個人としては毎月2,3回県外でのコンサートや出張稽古・ライブ活動で全国を巡回しております。

 

Q13:哲弘さんが一番好きな八重山の唄は?

勿論、全曲八重山の唄は大好きです。が、あえて1曲に絞るなら、西表島の浜辺にいるカニを擬人化した唄で「やぐじゃーま節」という曲かな。八重山の歴史と弱者の心理を如実に表している素晴らしい唄です。

Q14:最後になりますが、哲弘さんにとって八重山の謡(うた)とは?

八重山の先人達の「コトバと声」。八重山の謡には、先人たちが次世代の私たち後輩に八重山を伝えようとする「声」が聴こえてくる。それを聴き取り、「コトバ」を感じ取って唄うのか?ただの歌詞として、音楽として受け取るのか?大きな違いだと思います。

謡はその時代を映す鏡と言われている訳ですから、その謡が生まれた時代的背景、その時代の喜怒哀楽を学ばずして唄うのは八重山の謡に対する冒とくだと思う。工工四の通りに弾けて、民謡コンクールに合格したとおりに唄えるからといっては本当の唄者ではない。「八重山の謡」にはちゃんとバックグランドがある。ポップミュージックと同じように唄ってはいけないと思います。先輩たちが残してくれた八重山の素晴らしさを詰込めこんだ共有の無形の財産謡をこれからも唄者として大事に伝え続けていきたいと思っています。

 

余談

インタビューを終えたあと、おもむろに大工先生がある名刺を渡してくれました。そこには「沖縄県粟国村観光大使・大工哲弘」とありました。昔から粟国村に伝わる「シターリ節」という曲があり、島を離れる若者たちを送り出す惜別の唄でもあり旅立ちの唄でもあるそうです。その唄を昨年の9月に粟国島のお祭りで、大工先生が掘り起こし披露したそうです。それに喜んだ村長さんや関係者から観光大使就任の依頼を受けて承諾したそうです。「粟国島は沖縄の中でも小さい離島の島でまだまだ多くの方に知られていない。私が少しでお手伝いできるなら」と今年の1月に就任したとのことです。今でもバイタリティー旺盛で、OKINAWAを伝える為に尽力する大工先生のお人柄が伝わるエピソードだなぁと感じました。

 

 

大工哲弘 南風ぬイヤリィ:大工哲弘 南風ぬイヤリィ / 八重山民謡の第一人者、大工哲弘の公式ホームページ (daiku-tetsuhiro.com)