,

【八重山の唄者】第17回 大底 朝枝

大底 朝枝(おおそこ ともえ)

 

生まれ年:1974年

出身地:石垣市大川

在住地:石垣市登野城

所属:八重山古典民謡保存会

研究所:大底研究所

 

2000年(平成 12 )年  八重山古典 民謡 コンクール 最優秀賞 合格
2006年(平成 18 )年  八重山 古典 民謡保存会 教師免許取得
2024年(令和6)年  八重山古典民謡保存会 師範免許所得

 

Q1:出身地はどちらになりますか?
石垣市大川になります。3姉妹の長女で、妹が2人、一つ下と四つ下になります。

父が西表島の古見の出身、母が小浜島出身です。父方の祖父は竹富島の出身でしたので、西表島・古見の豊年祭や結願祭に参加することが多く、住んでいる大川の地域行事に参加したのは青年会のアンガマで2回程しかなかったです。。

父は私が2歳の頃から自宅の2階で三線教室を始めていました。稽古中は、祖父母と私たち姉妹は1階で過ごしていたんですけど、2階への階段が家の奥にあるもので、生徒さんたちが、普通に挨拶して私たちの横を通って階段を上がっていくので、家族みたいな感じで名前を呼び合うような関係でした。当時は、三線教室の部屋だけがクーラーが付いていたんです。稽古は夜11時までやっていたので、教室の隣の部屋で、ふすまを少し開けて涼みながら寝たりしていました。

 

Q2:3姉妹とも三線はやられてた?

小さい頃は3姉妹で三線をやっていました。一つ下の妹とは年も近いので何かある度に一緒に練習や演奏もしていたのですが、四つ下の妹はなかなか一緒に取り組むことができなくて自然と離れて三線はやらなくなっちゃいましたね。

 

Q3:三線を弾きだすきっかけは?

父の「三線やってみるか?」の一言でしたね。私が小学校3年生の頃です。それまではまったく三線は触っていなかったですが、「三線に触るな」などと言われたことはなかったですね。私と妹の他に従姉2人とお弟子さんの娘さんと5人で始めました。当時はまだ土曜日はお昼まで学校がありましたから、それが終わって14時から16時までの2時間の稽古を週1回でした。演奏するときは正座なので、ある程度時間が経つと足が痛くなってくるので「早く終わらないかぁ」と(笑)思いながら当時は稽古していました。土曜日の午後は友達のみんなは外で遊んでましたから。

 

Q4:小学生に2時間の稽古は大変だったのでは?

正直ずっと時計ばかり見ていましたね。「終わるまであと何分だ」と(笑)

父との稽古の時は、まず工工四は前に置いてましたが、「見なさい」とも「見るな」とも言わずでしたが、最初に読み方は教えてくれました。父が唄ってくれましたから、音源を流したりはする必要がなく、途中途中で「ここはこんな風にするんだよ」と丁寧に教えてくれていました。

 

Q5:小学生には民謡の歌詞を覚えたり、唄ったりするのって難しくなかったですか?

祖父母と一緒に住んでいたので、祖父母は方言で会話していましたが、私たちには日本語で話しかけていました。祖父母の二人の方言の会話をそばで聞いていて、なんとなく「こんなことしゃべってるんだろうなぁ」という理解はしていました。民謡の歌詞が漢字入りで書かれてるとより分かり易くて、祖父母の方言を聞いていたのでスンナリ歌詞に入れたと思います。

 

Q6:女の子5人での稽古はずっと続きましたか?

みんなで始めて1年後に、コンクールの奨励普及賞を全員で受けました。それまでは毎週1回の稽古を全員で続けていましたが、そのコンクール後は一番上の従姉のお姉さんたちが中学に上がったりして、他にやることが増えてなかなか集まらなくなりましたね。自然と土曜日の子供稽古が出来なくなって。それで、私は小学校4年生から大人の稽古の方に参加するようになりました。これも、父がそうしなさいと言われたわけでなく、自分から自発的に参加しましたね。

 

Q7:大人の稽古には同じ年くらいの子は居ましたか?

大人だけでした。あの時代は、今のように子供で三線する子はあまりいませんでした。そんな中で三線しているのが「恥ずかしい」と思ったこともありました。なので、周りの友達に三線してることはあまり話さなかったように思います。

中学に入学するとバスケットボール部に入部して、3年間所属してたので、毎日クタクタで帰って来てたので稽古にきちんと参加することはしてなかったです。ただ、「今日は弾きたいなぁ」と思った時だけ参加してました。父も「参加しないさい」とか一切言わなかったので私の気分だけだけでした。父は始める時の一言だけで、その後一切強制したり、「あれしなさい」「これはダメ」と言われたりしたことは無かったです。

 

Q8:お父さまとは稽古中は師範と弟子になりますけど、普段はどのようなお父さまでしたか?

子供の頃、父と話した記憶があまりないです。父は仕事から帰って来てお風呂入って、夕ご飯食べて19時から23時まで週4日で4時間稽古なんですね。一緒に住んでいても会話する時間が無かったですね。朝食の時は会話せず新聞読んでますし。父も母も「あれしなさい」「これしなさい」と言われたことも無いですし、怒られたことも記憶になく、本当に自由にさせてもらっていました。というか、私たち姉妹はずっと祖父母のそばにいたので両親よりも祖父母と会話していました。

Q9:高校に入学すると?高校は郷土芸能部がありますが入部したんですか?

お誘いは受けましたが、お断りして野球部のマネージャーを3年間してました。元々野球が好きだったこともあったんですけど、中学ではバスケ部に入部したので諦めてました。バスケもそんなに主力メンバーでもなかったので、高校まで続ける気はなかったです。

私は結局、しっかり稽古を続けたのは習い始めの1年間の子供稽古の時にしかないんですね。その後は、研究所主催の公演や所属している会の記念公演などの前には兄弟子たちと一緒にお稽古はしましたが、自分の気分だけで唄三線したくなったら唄うみたいな接し方でした。というのも、ほぼ毎日、父は稽古していましたし、唄三線が生活の中でずっと流れていましたから。コンクールの出場も父から「出なさい」などとは一切言われてないので、自分の気分で、じゃあ「新人賞に挑戦するからその曲の稽古しよう」「優秀賞の曲の稽古しよう」と決めていました。小学5年で「新人賞」、中学1年で「優秀賞」頂きましたが、高校時代は野球部マネージャーがとても忙しくてほとんど三線には触っていたなかったですね。

でも、3年の夏で部活が終了した時に、とぅばらーま大会に出場したんです。それは、高校卒業して島を離れた後、「石垣島にもしかすると戻ってこないかもしれない」という思いがあったんです。自分の思い出を残したいということで出場しました。実は中学2年の頃にも一度出場しているんです。その時はどうして出たいと思ったのか覚えてないですけど。

高校3年生ということで、とぅばらーまの歌詞はどうしようかと父と悩んだ覚えがあります。無事、予備審査に合格して本選で唄うことが出来たんですが、やはりとぅばらーまは難しいですね。その後、高校卒業して福岡の方の専門学校に2年間いって、卒業後は直ぐに石垣島に戻りました。

Q10:島を離れる時は、三線持って行かれましたか?

いえ。まったく考えていませんでした。(笑)とにかく、家に帰れば、あるモノで、聴こえてくるモノだったので、三線を福岡に持って行くという発想は無かったです。

もの心ついたころから、身の回りに普通にあるし、毎日父の三線が鳴っていて、お弟子さんたちが家に通っていて、練習しようと思えば練習出来て、教えて貰おうと思えば父が教えてれる・・・・。今考えればとても贅沢な状況だったなぁと。

で、石垣島に戻ったら三線ではなく、「踊りをやってみたい」と思い、すぐに宇根由基子舞踊研究所で八重山舞踊を始めました。そんな中でも、ふとコンクールの最優秀賞に挑戦しようと思って、いつものように、稽古に参加して、最優秀賞を頂きました。で、その5,6年後に父から「教師免許に受けてみないか」と提案されました。でも、その時は子供が生まれたばかりで、しかも試験会場がその年は那覇だったこともあり、断りました。ほとんど提案しない父からの提案を始めて断りましたね。(笑)でも、翌年には試験を受けて、教師免許を頂きました。

Q11:教師免許取られたらすぐに自身の研究所を立ち上げる方多いですけど?

教師免許頂きましたが、私はその頃、舞踊をメインにしていましたし、仕事と子育てもあったし、父もまだまだ現役でバリバリ指導していましたのでまったく考えてなかったです。

でもその後、父が体調を崩し入院してしまったんです。その時に、「あ、このままじゃあいけない。もっともっと父から唄を学ばないといけない」と思ったのですが、「研究所をやらなきゃ」とは思わず、父が戻ってきたら、「ちゃんと色々な事を教えてもらう」と心に決めていたのですが、そのまま退院することなく亡くなってしまいました。父が入院してからは、お弟子さんたちが代替稽古してくれてましたが、亡くなったのがあまりの急なことでどうしていいか悩んだのですが、このままには出来ないということで、妹と一緒に2014年に研究所を立ち上げることにしました。父の名前“朝要”を外した「大底研究所」の名称にしました。仕事と子育てしながらの指導になるので、お弟子さんたちは兄弟子たちの研究所に移ってもらったり、そのまま残ってくれるお弟子さんもいたり。父が亡くなったことで研究所をスタートすることになりましたね。もうすぐ10年になるので、今はお休みしている八重山の島々を巡り年に1度開催する「民謡のふるさとたずねて」を兄弟子たちと一緒に再開したいねと話しています。

一生懸命に父が伝えてくれた唄三線を伝える立場になって、どうやって伝えればいいんだろうと。研究所を開いて、通ってくれる生徒がいるから、教えて。ただ、それを繰り返すだけでは残っていけないだろうなぁと思いつつ、漠然と続けている。でも、漠然としているからやらない、ではなく、自分が唄って、伝えていくことが大事なんだろうなぁと思って続けています。

 

Q12:最後に朝枝さんにとって、一番好きだったり、特別な思いがあったりする謡(うた)はなんですか?

好きというか、何と表現すればいいのか・・・「不思議だなぁ」と思うのは「とぅばらーま」なんですよね。他の謡は「あ、いい感じで唄えたかも」というような感覚があるんですけど、「とぅばらーま」だけは唄えば唄うほど分からない、深みにはまっていく、答えが無い謡に感じます。歌詞も様々、自分の気持ちをのせて唄う謡なのでカタチがあるようでない、私にとってとても不思議な謡です。

好きな曲は、父のふるさとの「古見ぬ浦節」と母のふるさとの「小浜節」ですかね。父と母が出会えなければ私は存在していない訳で、ルーツを大事にする、両親、祖父母がいたからこそ、私はここで生かされているのであって、そこに感謝する気持ちを込めてふるさとの謡は大事にしたいと思ってます。

 

祖父の米寿祝に、父と妹とステージに【本人提供】

昭和63年度とぅばらーま大会ステージ【本人提供】