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【八重山の唄者】第15回 西原 和希

西原和希(にしはら かずき)

 

生まれ年:1996年

出身地:石垣市石垣

在住地:那覇市

所属:八重山古典民謡保存会 横目博二・貞子研究所

 

2001年 横目博二研究所入門 (5歳)

2003年 八重山古典民謡コンクール 奨励普及賞 (7歳/小学2年)

2010年 八重山古典民謡コンクール 新人賞 (14歳/中学2年)

2013年 白保村「ゆらてぃく祭り」夏花節大会 最優秀賞 (17歳/高校2年)

2014年 八重山古典民謡コンクール 優秀賞 (18歳/高校3年)

2015年 ヤマハミュージックレボリューション沖縄大会 グランプリ (18歳)

2016年 とぅばらーま大会 奨励賞 (20歳)

2019年 八重山毎日新聞社 八重山古典民謡コンクール 最優秀賞 (22歳)

 

 

Q1:出身地はどちらになりますか?

生まれた時は石垣市石垣、保育園通っている頃に真栄里のじいちゃんばあちゃん家に引っ越して、小学校2年の2学期に大浜に家を建てることになって、そちらに引っ越しました。

正直、字石垣の記憶はほとんどないですね。自分がどこ出身、って上手く言えない感じがちょっと悔しいです(笑)

 

Q2:幼少の頃のお話を聞かせてください

小さい頃に遊んでいたのは近くの真栄里公民館。現在の建て替え前の古いボロボロの公民館の時で近所の子供たちと野球して遊ぶのが日課でした。公民館のラッパスピーカーから正月は「鷲ぬ鳥節」やカジマヤーの時や行事タイミングで流れて来る民謡が幼少の頃の心象風景として残っています。兄妹は私が長男、下に二人の妹の3人兄妹です。

 

Q3:和希少年の八重山民謡に接したのは?

幼稚園の頃、一緒に住んでいたじいちゃんがラジカセで唄三線の練習をしていたんです。「あ、公民館から聴こえる音楽だ」と思い横に座って聴いていたら、おじいちゃんが最初に私に言った言葉が「三線は絶対に触るな」だったんです。「でも、触ってみるか?」と言ってくれて、指で弦に触れると音色が出て「うわ、音が出る!」と。「いいか?三線触るのはじいちゃんが一緒の時だけだからな」と念を押されました。どうしても三線が弾きたかったので、家にあったウクレレの弦を1本切って、三線に見立てて弾き始めました。じいちゃんに三線を触らせてもらったときのチンダミ(チューニング)も思い出しながら「鷲ぬ鳥節」の伴奏をイントロ(前奏)からアウトロ(後奏)まで。家の階段がコンクリートの空間で、ナチュラルリバーブで音が綺麗に響くので、そこで練習していたんです。そして「鷲ぬ鳥節」を1曲弾き終わったら、台所でそっと聴いていたじいちゃんが拍手して現われて。それがとても嬉しくて「もっと練習したい」と思いました。そうするとやっぱり三線が弾きたくなりますよね。それに、子供なので「触るな」と言われたら逆に触りたくなりますよね?おじいちゃんは三線を床の間に飾って置かず、袋に入れ、ガッチリとしたケースにしっかり閉っていました。じいちゃんが仕事で外出している時、ばあちゃんが台所に行ったのを狙って、ドキドキしながらケースを開けて三線をまじまじと見ていたんです。そしたら、じいちゃんが仕事から帰って来たんです。もちろんしたたか怒られて、ヤーチューまでされました。(笑)

その怒られる様子を見ていた親父が私に「なんで触った?」と聞いたら自分は覚えてなかったんですけど「自分も三線やりたい」と言ったらしいです。そしたら親父がメイクマンからカンカラ三線を買ってくれたんです。その三線を嬉しくてバンバン弾いていたらじいちゃんが「降りてきて一緒にやろう」と言ってくれて。目の前で「鷲ぬ鳥節」を弾いてくれて、とにかく、必死で弾く指を見ながら真似して。1か月くらいかけて三線で弾けるようになって、次は唄になる訳です。じいちゃんが大きな白い紙に毛筆で歌詞を書いて壁に張り出してくれて。唄も覚え、「鷲ぬ鳥節」の唄三線出来るようになりました。私の最初の先生はじいちゃんでした。その後に「デンサー節」「あがろーざ節」など他の曲も教えてもらいました。幼稚園の友達は、ポータブルゲームに夢中でしたが、自分は、早く家に帰って唄三線をしたいと思うような子供で僕にとっては唄三線が最高の遊びでした。

亡き祖父と。【本人提供】

Q4:いよいよ本格的に研究所入門することに?

おばあちゃんの姉弟の還暦祝いの席だったか、おふくろが琴を弾いて僕が唄三線で「デンサー節」を唄った時、地謡で参加していた横目博二師匠が「お前はどこの子か?」と声かけてくれて。「明日からウチの研究所に来い!」と言われ、小学校入学前に白保の横目博二研究所に通うことになったんです。じいちゃんからの教えで基礎は出来ていたので、構え、バチの使い方など横目師匠から一切指導を受けなかったです。とにかく作法とかも厳しく、三線をテーブルに立てかけたりせず、両手でしっかり扱いなさいと厳しく教えてもらいました。そんなじいちゃんも通い始めの頃に「和希がどんな稽古しているのか見たい」と言って稽古を見学しに来たことがありました。正座して壁の方からじっと見守ってくれていました。その当時、横目師匠が白保公民館で、「こどもと大人の学芸会」という発表会を行っていて、そこで独唱している僕を喜びながら見守る素敵な笑顔を今でも覚えていますね。

研究所に通って色々唄えるようになった小学校低学年の頃、じいちゃんも親父も酒の席で、自分を呼び出すようになって。酔っぱらって家に「和希を連れてきてくれ」と電話してきて、お母さんの車で三線持ってお店に向かい、数曲唄って“はな金”を貰うという。(笑)自分の小遣いになりますし、大人たちが僕の唄三線で嬉しそうに騒いでいる様子を見ていた妹たちも「三線やりたい」と言い出して。横目研究所に兄妹三人で通うことになり「西原三兄妹」として呼ばれていました。

横目師匠の元、白保のお祭りやイベントなど色んなところで小さい頃から唄わせてもらっていました。とにかく人前で唄うと、客席から手拍子が起こったり、観客が唄で返しが来たり、合唱が起こったり。その場にいる人たちが一体になる感じがとにかく楽しくてたまらなかったです。

 

Q5:小学生時代からずっと唄三線漬けの生活で中学時代は?

大浜中学校で郷土芸能部に入部して、研究所とは違う、年の近い同級生たちと一緒に唄う環境になりました。ほとんどが大浜村の先生の門下生が多かったですね。そして男子で郷芸部に入部するのは僕が初めてだったんですよ。周りは女子ばっかりでした。男子はみんなスポーツの部でとても寂しかったです。(笑)

中学2年生の頃。とぅばらーま大会【本人提供】

Q6:中学校でバンドとかやっている男子は居なかったの?

僕の頃は居なかったですね・・・。バンドといえば、僕が初めてバンドで唄ったのは、小学校時代なんです。大浜小学校が創立何十周年の「大小まつり」があって、PTAのバンドが出演することになり、そのバンドから三線で参加して欲しいと声が掛かったんです。BEGINの「島人ぬ宝」「竹富島で会いましょう」「オジー自慢のオリオンビール」をステージで演奏しました。古典民謡ではないステージで三線を弾いたのはその時が初めてでした。

 

Q7:民謡以外の曲を三線で弾くことは苦労しなかった?工工四(譜面)で練習したの?

僕は工工四(譜面)はつい最近まで読めなかったんです。三線弾き始めのおじいちゃんとの練習時も音を聴いて、指使いを見ての稽古だったのです。そして、横目師匠の稽古法が同じでした。稽古の時に工工四を持ってくる生徒がいると「師匠を目の前にして、工工四を見て弾くのか!」と怒ってました。でも、横目研究所に入門した時、他の先輩たちが工工四を教室に持ってくるので、自分もみんなと一緒で工工四を持ちたいと思って、お袋にお願いして買ってもらい、師匠は喜んでくれると思って、まだラッピングされたままの新品持って「工工四上下巻買いました」と報告したら「お、買ってきた?でどこで使うわけ?」と横目師匠が言うわけです。「いや、みんな工工四見てやっているので僕も見てやった方がいいのかな、と思って・・・」すると「和希、ここで練習する時はこれ(工工四)絶対に持ってくるな。それで練習したいならこっち(研究所)辞めてやればいいさ」と怒られてしまって。(笑)

なのでコンクールの最優秀賞合格するまで稽古では一切、工工四は見てないですし、読めなかったです。

Q8:使っていた三線の話を聞かせてください

最初のメイクマンのカンカラ三線から、母方のおばあちゃん家にあった三線があって、お袋が小さい頃に弾いたりしていた三線で、それを譲ってもらいました。その三線で横目研究所通ってましたし、今でも持ってます。次の三線は、中学2年の頃、コンクールで新人賞を受ける頃に、母方の爺ちゃんの与那国島の友人が黒木を伐採する人で、孫が三線やってるらしいから持っていけ、と立派な黒木を頂いたんです。どうしていいか分からず、親に相談したら「横目先生に預けた方がいいよ」と言われ横目師匠に預けることになったんです。そしたら「この黒木はもう少し寝かして乾燥させた方がいいから、沖縄の職人に預けような」となりました。そしたらある日、横目師匠が「和希、自分の三線はどんなカタチがいいか?」と聞いてきたんです。僕たちの稽古をするときに横目師匠が使っていた金箔が入ったカッコいい三線があって、「与那城(ユナー)型」で天が細みで竿が長い三線で横目師匠が大浜安伴先生から譲り受けた三線だったんです。「先生の三線と同じにしたいです」と答えました。そしたら、しばらくして師匠が「和希、お前の三線20万くらいらしい」と。「え、なんの話ですか?」と聞き返し迎えに来たお袋を呼んだら「20万くらい用意しておけば大丈夫よ」と言われお袋は真っ青になってました。(笑)どうしてこんな急に三線を作る事になったのかよくよく聞いてみると、その頃、横目研究所で沖縄本島のパレット久茂地での公演会があったんです。その時に黒木を預けた職人さんが観に来てて、僕の「安里屋節」を聴いたら「職人魂が燃えた!彼の新人賞受けるまでには三線仕上げるから!」と勝手に師匠と職人さんとで盛り上がったそうです。自分たちは寝耳に水で。(笑)新人賞コンクールの1カ月前にその三線が届いて、それでコンクール新人賞頂けました。自分自身の初めての三線で、今でも古典民謡の時はその三線をメインで使ってます。20万は父ちゃん、母ちゃんが頑張って買ってくれました。

 

Q9:三線だけでなく、太鼓や横笛も自分で演奏して多重演奏している動画を作ってますが。

太鼓は横目貞子先生や研究所の方の演奏に聴き耳を立てながら、見様見真似で遊び感覚でやり始めました。横笛を始めたのは、小学5年生の頃に成長期で変声が始まった頃です。稽古場に行ってもいつものキーまで声を持っていくことが出来ないし、音域が狭まってしまって、思い通りに唄えない自分が悔しくて泣いたこともありました。そしたら、横目師匠が「和希、声の変声が終わるまで、笛の練習をしときなさい」と言われ、笛を渡されました。丁度おじいちゃんも横笛吹いていたので、笛の練習を始めました。研究所の稽古に、笛だけ持って行き、みんなが稽古しているのに合わせて僕は笛を吹くんですが、当たり前ですけど、とにかく下手糞の笛で、皆さん我慢してくれて付き合ってくれるわけです。やっと人前で吹けるようになってからは、横目研究所の門下生の皆さん何か舞台で横笛が必要な時は、自分から手伝わせてくださいと声掛けして、恩返ししました。野底の「つんだら節大会」「とぅばらーま大会」など先輩方のサポートさせてもらいました。

Q10:古典民謡にどっぷりの生活を過ごしてた和希少年も高校生になり、将来の事を考え始めると?

高校は八重山商工高校に進学して、もちろん郷土芸能部でした。そして、一時期は音楽でメシ喰うことまで考えたこともあったのです、横目師匠にも「そんな甘いもんじゃないし、今の時代唄で食っていくのは難しいぞ」と言われて、商業科の観光コースを専攻して、観光業の勉強をしていたので、観光業に携わりながら、地元の伝統文化でもある自分の得意な唄三線を生かして行こうと漠然と考えてました。島にある全国チェーンのホテルに就職することに内定して、長野の本社に入社前の研修に行くことになったんです。全国から300名近い新人が集められて、まるで軍隊のような厳しい研修でしたね。そんな中研修中に、長野の本社で働いて欲しいと言われてしまい、このままだと石垣島に戻れないことになってしまったんです。その時にパッと思ったのが「三線弾けなくなる」だったんです。三線が弾けないという思いがどんどん強くなってしまって。研修中は携帯電話も没収されていて、親とも相談することも出来なかったんです。入社式30分前に教官室に行って、「すいません、緊急で親と相談する為、電話させてください」とお願いして。親父は「社会人とはそんな甘くない。もっと気持ちを強く持て」と電話越しに親父とボロボロ泣きながら大喧嘩になりました。「親父ごめん。自分の人生もう一度改めたい」と伝えたら、「先ずは一回帰ってこい」と言ってくれました。島に帰ったらおじいちゃんも激怒です「社会を舐めるな」と。この件でなかなか仲直りが出来なくて。親父は「好きな事をやって、自分が納得する人生を歩め」と言ってくれました。おじいちゃんは、島の外で何も経験積まずに戻ってきたことに納得してくれなくて。そのうち顔も合わせてくれなくなったんです。そんな中、島でアルバイトをしながら音楽で食っていく人生を歩もうと考え始めた頃におじいちゃんが急性心筋梗塞で亡くなってしまいました。仲直りも、有難うも直接言えずに。その分、じいちゃんから貰った自分にとって一番の財産である唄三線は絶対に辞めないという覚悟が出来ました。

 

Q11:ホテルで働きながら音楽活動を本格的に始めたんですね?

地元のホテルでアルバイトを始めた頃、石垣島でヤマハミュージックレボリューションというオーディションで優勝した時に、当時高校1年生の比嘉舜太朗と知り合い意気投合して「セルサティ」というユニットを結成して、石垣島の色々なところで唄うようになりました。そんな中、BEGINの比嘉栄昇さんにも「音楽やるんなら、石垣島じゃなく、沖縄本島に出た方が色々世界広がっていいと思うよ」と背中を押してもらったこともあり、舜太朗が高校卒業して沖縄本島に出るタイミングで僕もいよいよ石垣島を出て、沖縄へ拠点を移したのが2018年21歳でした。実は、奥さんとも遠距離恋愛していたので、那覇で一緒に生活を始め、奥さんとユニット「想華Umo-Pana(ウモパナ)」も結成し活動を始めました。新型コロナの時期もあり思うように音楽活動出来ない時期もありましたが、結成5年で初のアルバムを去年12月にリリースする事が出来ました。

 

Q12:とうとうCDデビュー。

今年の十六日祭にはそのCD持ってお墓に供えて、じいちゃんに「とうとうCD出せたよ」と報告が出来ました。実は、前日に八重山毎日新聞社と八重山日報社にリリースプロモーションをして、十六日祭当日の朝刊の記事で2紙とも紹介してくれていたのですけど、隣のお墓の方が「新聞見たよ。あのCD買いたいんだけど、今無いの?」と声掛けてくれて。じいちゃんに供えたCDにサイン書いて手売りしました。でも、じいちゃんも喜んでくれていると思います。去年、東京と那覇で八重山民謡をたった一人で唄うソロライブも初めて開催しました。改めて八重山の音楽はいいなぁと実感しています。この唄者ソロライブをどんどんやっていきたいと考えてて、自分のルーツミュージックを自分のスタイルを徐々に確立していけるように頑張りたいと思ってます。

Q13:最後に、数多く唄って来た八重山の唄で特別な曲はありますか?

思い入れもありつつ、一番自信持って唄える八重山の唄は、最初にじいちゃんに教えて貰って初めて唄えた「鷲ぬ鳥節」です。縁起のいい曲ですし、島を巣立って、成長して違う世界で大きく羽ばたきたくという今の自分自身にも重なるところもあるので、自分にとって一番の曲は「鷲ぬ鳥節」ですね。

今でも横目師匠の白保村の行事は観に行きますが、最近は地元にも若い素晴らしい唄者も増えてて。じいちゃんのルーツは鳩間島なんです。じいちゃんのルーツは僕のルーツでもあるので。那覇市にも鳩間郷友会があって、そちらでも参加交流させてもらいながら鳩間島の行事に積極的に参加するようにしています。

とにかく、まだまだですけど、八重山の唄者として八重山の謡(うた)の素晴しさを伝えられるよう頑張って行きたいと思っています。

 

 

想華Umo-Pana:hhttps://instagram.com/umo_pana?igshid=ZDdkNTZiNTM=

 

西原和希:https://instagram.com/kazuki_okinawa34?igshid=YmMyMTA2M2Y=